見出し画像

2. ウィトゲンシュタインの「沈黙」と「哲学的問題の解決」との関係

 以下にあるのは、かつてある大学に提出された論文の解題だ。その論文は「ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』において「沈黙」と「哲学的問題の解決」はどのような関係を持っているのか?」という問題を扱っていた。これは構想段階で評価できないとする旨が伝えられたため、後の機会に改めて提出されたが、やはり評価できないとする旨だった。後学のためにここにその解題を公開しておくことにした。

 『論理哲学論考』において、ウィトゲンシュタインは哲学的問題が「その本質において最終的に解決された」とし、その「解決」は「語り得ること以外は何も語らぬこと」によってなされるとした。そこで、私はこの「語らぬこと」、すなわち「沈黙」が哲学的問題の「解決」とどのような関係を持っているのかを疑問に思った

 また、多くの著名人がこの問題をないがしろにしているようにも思われていた。それは、例えば、ウィトゲンシュタインの理解者の一人として当時有名だった野矢茂樹だった。私は彼の『『論理哲学論考』を読む』を読んだとき、彼が「哲学的問題は思考不可能なので、語らなくてもよい」とし、哲学的問題について語ることを不必要なものと捉えているかのように見えた。ところが、ウィトゲンシュタインは「沈黙しなければならない」と言い、その禁止を訴えていたように私には思われていた。「解決しうる」と「沈黙しなければならない」は帰結の関係ではなく、同値の関係にあり、一方が成り立つとき、他方もまた成り立つと、私は思ったのだ。

1.  世界は事実の総体で、人々は事実を命題に写像する。

 『論理哲学論考』の骨子となる考え方は、「事実と言葉は私を介した写像の関係にある」というもの、いわゆる「写像理論」だった。「写像」というのは、一般的に、「2つの集合があるとき、片方の集合のすべての要素に対して、もう一つの集合のある要素が定まるという関係」のことだ。人々はある事実に直面するとき、ある言葉を発するのだ。その事実を表現するのが「命題」だ。

 この写像理論について人々と論じていたとき、よく見かけた間違いは、「物と名前が写像関係にある」としてしまうものだった。例えば、「リンゴ」という名前とリンゴそれ自体が対応しているとか、「走る」という名前と走る動作が対応しているとかしてしまう考え方だ。これは、ウィトゲンシュタインがラッセルから引継ぎ、「世界は事実の総体であり、物の総体ではない」と『論理哲学論考』で表現されている、「論理的原子論」の考え方から外れたものだ。「論理的原子論」とは、ラッセルがフレーゲのいわゆる「三原理」を発展させて構築した理論で、世界の最小の構成単位を物ではなく事実とし、それを表現する、論理の最小の構成単位を名前ではなく命題とする考え方のことだ。この考え方は『論理哲学論考』にはっきりと引き継がれている。そうすると、この理論の基本となるのは事実と言葉の対応であり、そこから物と名前、世界と論理の関係が派生するということになる。

2. あらゆる言葉は有意味で、その意味は一階述語論理で表現可能。

 この写像理論を前提したとき、ある言葉が有意味であるということは、その言葉を導いた事実が定まるということだ。もちろん一意に、つまり互いに唯一つに、定まる必要はもちろんない。ある言葉があるとき、その言葉を発している者が直面している事実が、一つであれ複数であれ、定まりさえすればいいのだ。

 私がこの話をしたとき、多くの人々とこの点において話がかみ合わなかった。というのも、当時の私の論理についての捉え方と他の人々のそれは大きく異なっていたからだ。私にとっての論理はこの世界の存在の法則であり、一種の自然の法則だった。それは、例えば物理の法則よりも、いっそう基礎的な自然の法則だった。それに対して、他の多くの人々は論理を人々の思考の法則と捉えていて、物理の法則等とは無関係なものとして捉えていたのだ。だが、論理の法則は明らかに人々の思考に左右されるようなものではない。例えば、「雨が降っており、かつ雨が降っていないということはない」という二重否定は、人々がいようがいまいが関係なく成立する。

 そうすると、論理の法則はこの世界のモデルであるということになる。また、そのモデルが明らかになり、そのモデルから構成されるすべての命題からその命題を導いた事実が定まるならば、あらゆる命題は有意味であるということになる。さらに言えば、もしも明らかに有意味な命題が、あるモデルにおいて無意味とされるならば、間違っているのは命題の方ではなく、モデルのほうだ。だから、人々はこの世界のモデルを単に明らかにすればいいだけだ。そして、私の考えでは、そのモデルはいわゆる「一階述語論理」に一致している。「一階述語論理」というのは、物の量化のみを許し、事実の量化を許さない論理のことだ。また、「量化」というのは、例えば「すべての」、「ある」等、集合における範囲の限定のことだ。

 ちなみに、「AさんはBであると信じている」等の、いわゆる「心の態度」を表す命題が高階述語論理に属すると主張する人々がいて、彼らは世界が一階述語論理によって表現可能であるという主張に反発していた。ところが、私はそうは考えなかった。「B」というのは単なる文字列だからだ。態度を表す命題もまた、一階述語論理で表現可能なのだ。

3. 一階述語論理は健全かつ完全で、語られ得ることはすべて有意味。

 明らかに、一階述語論理で構成されるこの世界の命題はすべて有意味で、また、有意味なこの世界の命題はすべて一階述語論理で構成されていた。このとき私が思ったのは、「これらの命題がすべて有意味であるということは、どのようにして知られるか?」ということだった。というのも、たとえ一階述語論理で構成されるあらゆる命題が有意味であったとしても、それが有意味であるということを私が知ることができるとは限らなかったからだ。そこで、私は論理の構文論と意味論、あるいは健全性と完全性について考察しなければならなかった。構文論とは、命題の真偽を仮定しない、推論の遂行に関する諸命題で、意味論とは、命題の真偽を仮定した、推論の意味付けに関する諸命題だった。また、構文論で成立した命題が意味論でも成立することを「健全」と言い、意味論で成立した命題が構文論でも成立することを「完全」と言った。つまり、先の疑問は「この世界は健全で完全か?」と言い換えることができるのだ。

 構文論について私が着目したのは、いつでもどこでも真実である命題、いわゆる「トートロジー」だった。トートロジーが成立していることに疑問の余地はなかった。だから、ある構文論がトートロジーから構成されている限り、そこから導かれる命題もまた、すべて成立していると言えたのだ。意味論について私が着目したのは、いわゆる「数学的構造」だった。事実は事態に分解されうるが、その際、事実は数学的構造に従って事態に分解され、命題は要素命題に分解される。この数学的構造が事実を相互に分別するものとなり、それぞれの命題に固有の意味を与えるものとなる。物自体と対象の関係を前提しなくとも、この数学的構造による事実と命題の関係によって、命題に意味が与えられるのだ。これらの、トートロジーによる構文論と、数学的構造による意味論が用意されたことで、一階述語論理の健全性と完全性がただちに示される。これはかつてゲーデルがいわゆる「一階述語論理の完全性定理」で示した通りだ。

 ちなみに、ゲーデルもまた、一階述語論理が健全でもあり、完全でもあると主張した。ところが、私はこの主張をそのまま受け入れるわけにはいかなかった。というのも、ゲーデルがいわゆる「形式主義」の立場に立っていたのに対して、私はいわゆる「論理主義」の立場に立っていたからだ。形式主義とは論理を思考の法則と見なす立場で、論理主義とは論理を世界の法則とみなす立場だ。形式主義では任意の構文論や任意の意味論が許されるのに対して、論理主義ではそれらは許されず、世界のモデルとしてのみ許される。だから、私は論理が世界のモデルであることをまず示さなければならなかったのだ。
 また、有名な、いわゆる「要素命題の独立」に関する問題や、「色命題の従属」に関する問題は、もしも帰納法が許されるならば、簡単に示すことができ、問題にはならない。ただ、帰納法における無限が現実には存在しないため、これらを示すことは不可能であると、私はかつて思っていた。だが、その後、私はその考えを翻すことになった。というのも、物が法則を作っているのではなく、むしろ法則が物を作っていると考えるようになったからだ。この世界はただ法則によってのみ作られているのだ。すると、無限もまた現実に存在しているということになる。そして、要素命題は相互に独立していて、色についての命題は相互に従属しているということになる。

4. 語られうることがすべて有意味であるということは、語られ得ぬことについて沈黙することによって可能となる。

 ここまでの考察でわかったのは、この世界のあらゆるものは有意味であり、また、人々はその意味を知り得るということだった。

 ところで、ここまでずっと私の念頭に留まっていたのは、いつでもどこでも当たり前の事柄について述べた言葉だった。例えば、「世界がある」という言葉、「私がいる」という言葉、「物には意味がある」という言葉、等々、挙げ始めればきりがなかった。だが、これらの言葉は決して日常の会話に現れてはいなかった。というのも、当たり前すぎて、普段は誰もそのことを話題にしようとは思っていなかったからだ。ところが、歴史上、人々はこうした事柄について度々問いを発し、それについて論じてきた。これはとても奇妙なことだった。だから、ここで私が「なぜこうした言葉、「哲学」が存在するのか?」と問うたのは、当然のことだった。

 そこで、深く自らの記憶を探ってみると、「ああ、世界がここにある」とか「ああ、私はここにいる」とか言いたくなる機会は、確かに私にも度々あったことに気が付いた。その機会というのは、自らへの嘘が見抜かれ、それによってある心の働き、「世界への驚き」が生じたときであると、私は思った。つまり、普段、少なくとも私は、現実の悲劇から逃れようと自らに多少なりとも嘘をつきながら過ごしているものの、そうした嘘を看破して、この世界のすべてについて明晰に語る勇気を持ったとき、そうした驚きが生じるのだろうと、当時、私は思ったのだ。実際、自らへの嘘は事実と矛盾し、その矛盾は論理の健全性と完全性を破壊してしまう。そして、この「自らへの嘘」、事実ではない事柄こそ、それについて語り得ぬもの、語ってはならないものだったのだ。

 こうして、およそ語られうることはすべて明晰に語られうるということがわかり、それは語り得ないことについての沈黙に等しいと、私は考えるようになった。

 ところが、この著作には重大な問題があると、後に私は考えるようになった。この著作における文体の問題だ。この著作で語られている「世界の存在」や「私の存在」等といった形而上のものは、日常では語られないものだった。だから、ウィトゲンシュタイン自身も指摘している通り、彼の主張に従うと、この著作自体もまた意味不明なものになり、誰にも伝わらないものになってしまうのだ。そうすると、これらの事柄を語ろうとする場合も、あくまで日常で使われている言葉でなされなければならないということになる。

 さらに、私はこの著作が執筆されなければならなかった理由も気になっていた。というのも、彼の主張に従うと、形而上のものは日常で語られないばかりか、語ろうとすら思われないはずだからだ。それらについて疑問に思うきっかけすら存在しないのだ。

 そういうわけで、私はこの著作を読み終わったとき、この著作を不完全なものとみなすようになった。そして、その後、彼の著作群にますますのめり込んでいくようになった。

補遺1. 要素命題が相互に独立しているということの証明

 命題と命題との関係は自明に帰結・独立・排反のうちのいずれか。
 さて、真理関数において、ある命題を真にする要素命題の組み合わせをその命題の「真理根拠」と呼ぶ。ある命題のすべての真理根拠が他の命題の真理根拠になっている場合、前者が後者を「帰結する」という。ある命題が他の命題と一つも真理根拠を共有しないとき、これらは相互に「排反する」という。二つの命題がそのいずれの関係にもないとき、それらは相互に「独立である」という。例えば、命題PはP∨Qを帰結し、¬Pと排反し、Qと独立。
 まず、Pという一つの要素命題しか存在しないとき、これは他の命題といかなる関係にもない。次に、P・Qという二つの異なる要素命題があるとき、それらの真理可能性はそれぞれ二つずつしかない。そのため、PがQを帰結するか、QがPを帰結するか、いずれか一方が成立した時点で、PとQは同値になる。これはPとQが異なる命題であるという前提に反するから、PとQは帰結関係には立たない。三つ以上の要素命題についても同様。
 また、否定とはある命題の真理可能性が真であるとき偽を返し、偽であるとき真を返すような命題関数。要素命題は真理可能性を二つしか持たないので、PがQに排反するならば、必ずP=¬Q。Qと¬Qは両立しない。よってPとQは排反ではない。
 以上から、PとQは帰結関係にも排反関係にもないため、相互に独立。
 以上。

補遺2. 色の相互従属と要素命題の相互独立の無矛盾の証明

 「ある対象が同時に2つの色を持つ」という命題を論理式で表すと次のようになる。「F(a)∧F(b)」。
 ところで、事実の数学的構造によって事態が決定し、それが対象を一意に定めるということから、事態と対象は自明に一対一の対応をなしている。よって、F(b)=¬F(a)。よって、F(a)∧F(b)はF(a)∧¬F(a)であり、これは矛盾。よって、色は両立不可能。
 また、F(a)と¬F(a)のいずれか一方が成立しているため、F(a)が要素命題であるときF(b)は要素命題ではない。
 以上から、色の相互従属は要素命題の相互独立を損なうものではない。
 以上。

補遺3. ウィトゲンシュタインが要素命題と色の問題に触れている箇所

 私は以前、要素命題について二つの表象を持っていた。そしてそのうちの一つは正しいと思われるが、もう一つは完全に誤っていた。私の第一の仮定は、我々は命題の分析によって結局はやはり命題に到達せざるをえない、そしてその命題とは、対象の直接的な結合であり、論理定項の助けを借りないものなのである、なぜなら、「でない」、「そして」、「または」、「もし.……ならば」は、対象を結合しないから。今でも私はこの第一の仮定を固執している。第二に私は、要素命題は相互に独立でなくてはならない、という表象を持っていた。完全な世界記述はいわば、或るものは肯定的であり、或るものは否定的であるところの全要素命題の積であるだろう、というのである。ここにおいて私は誤っていた。

(ウィトゲンシュタイン『ウィトゲンシュタインとウィーン学団』
「1930年1月2日木曜日、シュリック邸にて」)

f(a)とf(b)が相互に矛盾することがありうる、というのは確かに実情と思われる。だがこのことはいかにして可能なのか。例えば私が「ここは今赤い」と語り、そして「ここは今緑だ」と語る場合であろうか。
このことは「完全な記述」という観念と連関している。「この斑点は緑である」はその斑点を完全に記述するので、もはや他の色のための場所がないのである。
(中略)
「赤と緑はともに同じ場所には可能でない」とは、事実問題としてそれらが一緒にあることは決してない、ということではない。それらが一緒にある、と語ることさえ全く不可能なのであり、従ってそれらが決して一緒にない、と語ることも又不可能なのである。

(ウィトゲンシュタイン『哲学的考察』78-79章)

この記事が参加している募集

#読書感想文

191,671件

#人生を変えた一冊

7,996件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?