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長月の残月に手を伸ばす


今日、朝目覚めたとき。

いつもと何かが違っていた。

布団のなかで現実と夢とを行き来しながら、もがくように動かす腕や足が何やら軽かった。

上半身を起こす勢いを使って布団を半分に折りたたみ、重力に従って再び身体をベッドに預ける。

ばふっという音と共に身体は沈み込む。

その姿勢のまま両足を上に向け、ばたつかせる。

奇怪な行動ではなく、もちろん理由がある。

そのあと、眠い頭でブリッジをした。

大学生でもブリッジくらいはする。

このとき、明確に自分の身体の軽さに驚いた。

1週間前のブリッジでは頭が持ち上がらず、自分の腕の非力さ、身体のなまりに愕然としたはずだった。

それなのに、運動不足による重くて扱いにくい身体を、今朝は思い通りに動かせた。

その喜びは存外に大きかった。

腹が天井にむかって反り、背中は綺麗なアーチを描く。

どれほど動かそうとしても、ずっと重かったのに。

ようやく心と身体のサイズが合致したような、そんな不思議な心地を感じた。

今日は何かが違う、特別な日だと直感した。



寝室を出て、寝間着のままで、いつものように会社へと向かう母を玄関で見送る。

車が左へ曲がり見えなくなるその最後の一瞬まで、手を振り続ける。

時々寝坊して、それができない日もあるけれど、私にとってそれは朝の日課である。

その後、時にはベッドに足が向いてしまう日もあるが、今日はそんなことはなかった。

いつもより早く私は服を着替えた。

そして、眠い頭と軽い身体一つで自らを朝8時前の世界へ浸しに向かった。

小鳥のさえずりが、冷気に反響する。

真新しい空気に満ちた世界のなかへ。





まだ出てきたばかりの太陽から滲みだすまどろむような熱と、しんと底冷えするような棘をもった風のなかを、私は身軽な身体で歩き続ける。

夏と冬の間にある、秋にまさにぴったりの気候だと私は思っていた。

少し車通りの多い道路を越えて、たんぼ道へ向かう。

車がひっきりなしにエンジン音を立て走り去る、背後のアスファルト。

振り返ったならばその先には生活の音が溢れている。

目の前には、視界いっぱいに広がる稲穂の海。

風のなかで、さわさわと立ち揺らぐ稲の吐息。

まだ陽の光が届かない、薄い影のなか。

静と動のその狭間に私はいた。

世界は確かにくっきりと二分されていた。

科学技術と生活が混ざり合って音を立てる。

排気ガスのにおいが、朝の空気に混じって鼻をつく。

そんな世界の向こう側で。

まだ稲穂は眠っているようだった。

田んぼに挟まれた中央の道を、一歩一歩確かめるように進む。

白鷺が、その絵の具のような翼の白を隠して、ひっそりとたたずんでいる。

折れてしまいそうな程に細い首を、稲の上に伸ばしている。

ただひたすら上へと。

あの華奢な鳥が、翼を広げて飛び立つときの力強い羽の動きを私は知っている。





私は、進む。

まるで身体が空洞になって、心の重さだけで地面と接地しているような心地で。

向かい風を指先で切って、進む。





稲穂を揺り起こすような涼やかな風に、ふと空を見上げると。

そこには白んだ半月があった。

瑞々しい空の青のなかに、ぼんやりと浮き上がるように。

じっと、とどまっていた。

手を伸ばす。

あの月の眠りを醒ますように。

私の酔いも醒めるように。

青に溶けて消えていく残月を、ただ見つめていた。

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