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負けたと思わない限り負けていない

勝ち負けは主観だ。

そして相対的であり流動的である。

どこからが勝ちでどこからが負けか、特に人生という複雑かつ膨大かつ正解がないオープンワールドゲームは勝ち負けの定義がより曖昧だ。

人生が充実している人間でも、インスタでアピールしているということは、幸せじゃないのかもしれない。
アピールする人は、幸せの確認行為をしているのではないか。他者がいいねをしてくれないから自分は幸せではない。いいねが多い人が価値のある人生を送っていて、自分もそれが幸せなのだろうと思う。

「金もあるし、評価もされている。だけどなんだか満たされない…」
それは他者が良いとしているものを、自分の頭で考えずにただ求めていたからだ。

トリュフやフォアグラ、そして絵画は高額な値段がつく。しかし僕らが欲しくならないのは、周りの人間たちがそれらを求めていないからだ。

絵画も珍味も多数が求めているものではない。だから自分も欲しくはない。
逆に言うと、大多数が欲しがれば、自分も欲しくなる。

幸せの形や勝ちの形もそうだろう。
しかし先ほども書いたが、勝ち負けというのは主観だ。
つまり存在していないといっても過言ではない。人間が作り出した概念だからだ。

仮に勝ちとされるような基準を全て満たしている存在がいたとする。
金、評価、人脈、能力、美貌…。その人間は自分自身を勝者だと思えているのだろうか。

2020年のコロナ禍、芸能人の自殺が相次いだ。それも端くれでなく、一流の芸能人だ。
彼らは国民の誰もが認める勝者の要素を持っている人間だったはずだ。
そんな人間達が自ら人生を終わらせた。

ワイドナショーで自殺問題に対して松本人志は「死んだら負けだぞ」というコメントしていた。

金も名誉も人脈も持っていた勝者が、自ら負けた。
というか死ぬ前から自分の事は勝ち負けのどちらだと認識していたのだろうか。

自分が負けたと思わない限り、どんな悲惨な状況でも負けではないのではないか?
結局主観なのだから。
逆に言うと自分が勝ちだと思えないと、どんなに大多数の定義する価値基準を得ていても、本人が「この人生、勝ったぜ」と思えていないならそれは勝ちではないのではないか?

自分が幸せと感じるのが真の勝ちなのか、日本は資本主義社会なので、ひたすら金だけを持つ者が勝ちなのか、それとも友達が世界一多いから勝ちなのか、若さや美貌があれば勝ちなのか、愛人や車、知名度が沢山あるのが勝ちなのか…。よくよく考えると分からなくなる。

少なくとも勝ち負けは主観なので、自分が負けたと思わない限り負けではないと思う。
少なくとも人生においてはそうだろう。

これがスポーツやゲームの世界だと、事実になるのだろうが。



事実のある勝ち負けに対してはどう考えるのか

格闘技で対戦した相手にボコボコにされ完膚なきまでに叩きのめされて負けた。

これに対する解釈は

ルールが変われば勝敗の結果も変わる

ということ。

その試合のルールが目突きや噛みつき禁止のルールだったとして、そのルールでは負けたというだけの話。
これでバーリトゥード、戦場の殺し合いのようなルールになったら、結果は変わりかねない。

パンチ禁止ならばボクシングがバックボーンの選手は圧倒的に不利になるし、クリンチや肘打ち膝蹴りが禁止なら、ムエタイ出身の選手は不利になる。

これもやはり流動的であり曖昧なものといえよう。
「人類最強は誰だ!?」
といった議論がよくされるが、持ち味を発揮出来る平等な環境は用意できないことが多いので、やはり主観だ。

サメとライオンが戦って勝つのはどちらか


これが証明している。

お互い自分が得意なフィールドでしか戦わない。というか戦えない。
まさかサメが陸に上がってくるわけにもいかないだろう。

仮にサメが陸に上がったとして、ピチピチはねるだけでライオンに食われるだけだ。
というか放っておいても呼吸困難で死ぬ。

逆にライオンが海に入っても、潜水できずに死ぬ。
というか放っておいても力尽きて溺れ死ぬ。

勝ちか負けかはやはり環境|《ルール》依存なのだ。

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