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何度でも読み返したいnote3

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何度でも読み返したいnoteの備忘録です。こちらの3も記事が100本集まったので、4を作りました。
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2022年8月の記事一覧

看護師だった母のこと

8月になり、母の何度目かの命日が訪れる。 大人になるまで、私は母が好きではなかった。 はっきり嫌いとまではいかなくても、自分の母と周りを比べて子供の頃からコンプレックスを感じていた。 母は看護師だった。 私が幼い頃から両親は共働きで、私と姉は当時でいう鍵っ子だったので学校から帰ってくると夜までひとりで留守番していた。 年が離れた姉は中学で部活をやっていたから、帰宅は母より遅かった。 留守番は苦ではなかったけれど、母が仕事の日に友達と遊びに行けないのが嫌だった。 ふだん

下駄をはいた豆ごはん

子供のころ楽しかったお手伝いに、えんどう豆のさや剥きがある。 さやの端っこにある「ここから開ける」と言わんばかりの髭を引っ張ると、ぴりっと小気味良い感触と共に筋が外れる。筋があった部分に親指、反対側に人差し指を置いて力をこめると、ぱこん、とさやが開き、つやつやした緑色の豆が顔を出すのだ。丸々太った大きい粒も、兄弟に押されるようにして縮こまる小さい粒も、どちらもかわいい。 さやの内側を指でこそげるようにして、豆を取り出す。ボウルの底に硬い豆がぶつかる、こここここ、とリズミカル

夜涼みの缶ビール

考えごとをしていて、いつもどおり散歩へ出た。療養期間が明けて久しぶりに吸い込んだ夏の空気は、早くもどこか秋めいている。 季節ごとにタイトルを付けはじめて一年。この時期はどんな言葉があるのだろうと思って少し調べたら、良さげなのが見つかった。よすずみ。二文字で「やりょう」でもいいらしいが、夜道の足取りに関わるので夜涼みの散文とする。 整理、という言葉がある。 仕事をしているとよく出くわす。記録の曖昧な情報、数字の合わない根拠、部署間での意見の対立。少々都合の悪いことに一旦の

世界を変えるかもしれない余計な一言

 「女性にうれしいヘルシーメニュー」  この謳い文句にモヤモヤとした気持ちを抱く。悪意なんてこれっぽっちもないその表現に引っかかりを覚えてしまう私はきっと面倒くさい奴なのだろう。  私は昔からこの手の表現が苦手だ。性別という大きなくくりで十把一絡げにして女性はこう、男性はこうだと特徴を決めつけることに違和感を覚えるのだ。近頃はジェンダーについてメディアでも取り上げられることが多くなり、このモヤモヤに遭遇することは少しずつ減ってはいった。しかしそれらは今だに日常に潜んでいて、遭

お仕事が辛い時に見返す用!

今お仕事が辛すぎて、友人たちに助言と金言と謎言を貰いまくったんだけど、それを書いておけばまた辛い時に見返せるじゃん!!という私の為の記事!! ●「上司に嫌なこと言われても、そいつと晩飯食うわけじゃないし、旅行に行くわけじゃないから大丈夫」 結局他人だよねって言われて目から鱗!たしかに! 昔は本当に上司が怖くて怖くて…。一挙手一投足にビクビクしていました。 どうしよう、嫌われたかも、無視されるかも、悪口言われるかも……無駄な心配ばかりしていました。 でも、友人からこの言葉を

「正義」を盾にとった怒りの不当性

大人になったら、問題点を指摘することと、そこに感情をのせて構わないと勘違いすることを区別する必要があると思います。現在の日本人は「怒っていい」理由探しをしがちで、これなら怒ってよい、というのに甘えがち。私はそれ、あまりよくないと思っています。 以前、京都に出張に行ったとき、大雨で電車が出なくなっていました。とあるオッサンがホームにいた駅員を捕まえて「約束に遅れるやないか!どないしてくれるねん!」と怒鳴り散らしていました。その場にいた乗車予定のお客さんを代弁する、正義を行使し

勝手に輝く星

私が2人目の子どもを出産した時、世間はマスク紀に突入していた。 関東から九州への里帰りだったので県外からやってくる夫の立ち会いは禁止、加えて7日間の入院期間中は誰であろうと面会禁止という、一度入ってしまえば退院まで外界の誰とも会えないという不便な状況であった。 もとより立ち会い出産は希望していなかったので問題は誰にも会えないという入院期間である。 上にいる3歳の娘は私の父母に任せていたが、テレビ電話で 「おかあさん、まだ、びょういん?」 「はやくかえっておいでよ」 と言わ

15歳の友達

先日、郵便ポストを開けると見慣れないキレイな文字のハガキが届いていた。 うっすらラベンダーの香りがしていたので、差出人の見当はついた。 15歳の友達だ。 「残暑お見舞い申し上げます。厳しい暑さが続いておりますが、いかがお過ごしでしょうか?」 あはは。いつのまに、こんなキレイな文字で、私を気遣うような文章を書くようになったのだ……。 彼女と初めて友達になったのは、母ちゃんのお腹の中3か月目。 以来15年とちょっと、私にさまざまな喜びと気づきを与えてくれる大切な友達である。

リーダーのいちばん大切な仕事は「機嫌よくいること」だと思う

ぼくはマネジメントが苦手です。 マネジメントというか、人を叱るのが苦手なのです。 ぼくは名古屋にある、社員100人ほどのデザインファームを経営しています。先代の後を継いで、4年前に社長になりました。 社長……なのですが、ぼくはいつもみんなから怒られています。「茂森さん、しっかりしてくださいよ」と。先代の社長からは「おまえはもっと部下をちゃんと怒らないとダメだ」といって怒られていました。 でも、人に対して強く言えない性格はもう生まれつきのもので、どうしても変えられなかっ

月経に伏して

トマトピューレをシンクにひっくり返し、洗剤を入れずに洗濯機を回し、単三でなく単四電池を買って帰って来てしまった日なんかにふと考えるのは、自分がこれまで普通に生きてこられたのはただの偶然の重なりで本当ならいつ気が狂ってしまうとも知れないし、そうでなくても既に狂ってしまった側の人間から不運にも命を強奪される可能性だってあるのだということ。自分がこの歳になるまでなんの事故にも犯罪にも巻き込まれず、また自殺もせず、本当の意味での生存の迫害を受ける機会が一度もなかったというのはひとつの

コントみたいなお昼ごはん

父がキムチの蓋をずっとかちゃかちゃやっている。 どうしたの?と洗い物をしていた母が聞くと、何処かから飛んできたキャベツが蓋にくっついているのに取れないらしい。 貸してみて、と母が手にとるとすんなりと取れた。 「お父さん、これ、蓋の上についてるのよ!」と言われ、父と私は爆笑した。 ずっと蓋をかちゃかちゃやっているのを見ていた私は何してんだろうなくらいに思って何も言わないし、蓋についたキャベツを一生懸命取ろうとしていた父はなぜか蓋の内側についていると思って疑わなかったらしい

蝉が鳴き止む頃、僕は兄じゃなくなった

兄じゃなくなったわけ 2人の弟。 彼らとは、20年近く会話といった会話を交わしていない。 喋らなくなった原因が何であったか? お互いに避けるようになった理由が何であったか? 正直、全く覚えていない。 1つ覚えていることは、夏休みが終わろうとしている頃、 兄弟喧嘩をした。 この喧嘩以降、兄弟の間で会話がなくなったのだ。 蝉が鳴き止む頃 僕は 兄じゃなくなった。 1991年8月。 僕は三人兄弟の長男として生まれる。 2年後、次男が生まれ、3年後三男が生まれた。

だまされる愉悦。

スーパーやドラッグストアのお菓子売り場は、私を安らぎで満たしてくれる。 なぜなら、そこに湖池屋がいるから。 のりしおのパッケージを見るだけで、私の心はノスタルジックな気分になる。まるで、半年ぶりの里帰りでようやく抱っこできた猫の匂いを嗅ぐかのよう。おかえり、という声が聞こえるようだ。 思えば私の人生の隣には、いつも湖池屋がいた。 たぶん子供のころから今に至るまでに10000袋は食べている。 私の身体の三分の一は、湖池屋で出来ているといっても過言ではないかもしれない。 もちろ

美しい名前をつけること

いつか愛する人の子に凛とした美しい名前を与える。 例えばそんな未来のたったひとつの行為のために、今僕は泣きながら勉強しているのだと思うことがある。 アメリカに来て様々な人に会った。 当たり前のことだが出会った人間皆に彼らだけの名前がある。 以前よりもスペルやアクセントが全くわからないということは少なくなったとはいえ、ここは人種と民族のるつぼであって、未だに聴き直したり書いてもらったりすることも多い。 日本にいるときもそうだったが、名前を反芻してもらうことには相手の領域に一歩