月経に伏して

トマトピューレをシンクにひっくり返し、洗剤を入れずに洗濯機を回し、単三でなく単四電池を買って帰って来てしまった日なんかにふと考えるのは、自分がこれまで普通に生きてこられたのはただの偶然の重なりで本当ならいつ気が狂ってしまうとも知れないし、そうでなくても既に狂ってしまった側の人間から不運にも命を強奪される可能性だってあるのだということ。自分がこの歳になるまでなんの事故にも犯罪にも巻き込まれず、また自殺もせず、本当の意味での生存の迫害を受ける機会が一度もなかったというのはひとつの奇跡だ。幼い頃は大人の言うことを聞かずに危険な場所ばかりを遊び場にした。暗い夜道をなんの警戒心もなく一人で歩いたこともある。思い返せばあの時も、あの時も、いつ殺され(犯され)たっておかしくはなかった。それを今日までどうにか運よく切り抜けてきただけだ。それだけのことだけど、それだけのことが許されず命を奪われる人もいる。あらゆる犯罪や戦争の被害者、望まずして死んでいった人々。自殺だってそうだ。自殺する人が望んでるのは死そのものじゃない。死そのものなんて、そんなものを欲しがってどうなる?自殺する人はみんな死にたいから死ぬんじゃない。死ぬほかにないから死ぬのである。そうやって、唐突に明日を失った人たちのことを思うとやるせなくて、つらい。どうにかできないのだろうか。今こうしてる間にもきっと私と同じようなことを考えてる優しい人たちが無数にいるはずなのに、それでもどうにもならない。悲しい。

私は部屋の床に寝転んで天井を見上げながら、自分のお腹を撫でる。しくしく痛むお腹の下辺りを何度も何度も撫でる。生理の時のお腹を撫でる自分のこの仕草は、きっとこの世で一番優しい。みんながこんな風に他人に触れるようになれたらもう誰も悲しまなくてよくなるのに。どうにかできないのだろうか。どうにか。それでもやっぱり私の寝転ぶ床は冷え切っていて、硬い。どんなに優しくお腹を撫でたって、私が私自身をこんなところに投げ出しているんじゃ労りもなにもあったものでない。私は私を持て余している。扱いに困って困り果てて、いつも粗末な処遇ばかり押し付けてしまう。可哀想に、今日はなにも良いことがなくて生理もひどくて、さっきから悲しい想像ばかり続けているせいか気持ちはどんどん憂鬱になっていくのにこんなに硬い床に寝そべっているよう強要されて、可哀想に。自分の不憫さをつくづく感じ取りながらも体は起こせなくて、私でさえこうして私を思いやれないでいるのに世界中の人々の配慮の足りなさについてどうしてあれこれ口出しできるだろうと恥ずかしくなった。情けなさも極まってとうとう涙まで出てくる。私はまだ仰向けのままで、湧いて出た涙は目尻を伝ってポトポトと床へ落ちる。あとからあとから伝って落ちる。その涙の立てる微かな音を、一つ一つ、決して聴き漏らさないよう耳を澄ませながら、今のこの力を持たない自分、人を説得できる言葉を持たない自分のどうしようもない何でもなさについて改めて深く理解した。また同時に、痛みを取り払うためでなくただ寄り添うためだけに肌に置かれた手のひらがこんなにも優しいということも、深く深く覚えていようと思った。

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