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コントみたいなお昼ごはん

父がキムチの蓋をずっとかちゃかちゃやっている。

どうしたの?と洗い物をしていた母が聞くと、何処かから飛んできたキャベツが蓋にくっついているのに取れないらしい。

貸してみて、と母が手にとるとすんなりと取れた。
「お父さん、これ、蓋の上についてるのよ!」と言われ、父と私は爆笑した。

ずっと蓋をかちゃかちゃやっているのを見ていた私は何してんだろうなくらいに思って何も言わないし、蓋についたキャベツを一生懸命取ろうとしていた父はなぜか蓋の内側についていると思って疑わなかったらしい。

「フロントガラスに引っ付いてる虫みたいだね」と私がいうと、「流石にそれはわかる」と怒られた。

母が昼に買ってきてくれたお弁当の蓋には「高菜」「明太子」とシールが貼られていて、お弁当に入っているおにぎりの具を指しているらしかった。

先に食べ終わっていた母に「やまめちゃん、これね、高菜じゃなくておかかだったわ。作る人が入れ間違えたのかしらね」と言われたので「ふうん」とだけ言ってもくもくと食べていた。

「お前はおかずから先に食べるんか」とその様子を見ていた父につっかかられる。
「うん。フレンチ的なね、食べ方よ」と適当に返事すると、なぜか「性格悪ぃなあ」と返された。
「まぁね、よくはないかもね」とめげずに言うと、
「自覚があるならいいわい」と言ってにやりとされた。

なんなのだ。
そう思いおにぎりを手に取ると明太子だった。
と言うことは、残るは「おかか」か〜と思ってパクリとすると、「高菜」だった。

「母さん、私のちゃんと高菜だったよ」と言うと、
「え?」「え?」「え?」と何度も言いながら母が近づいてきて私の手の中にあるおにぎりの具を覗き込んだ。

「ほんとだ」

「母さんの、あたりだったんだね」と言うと
「そうね、ある意味ね」と納得のいかない顔をする。

その後もどうして間違えたんだろうね?と誰かが言い出して議論してみたり(お弁当に入れる用だけではなく、おにぎり自体も販売していてその中のおかかを間違えて入れたんじゃないかとか。高菜が足りなくなってもうおかかでいっかっておかかにしたんじゃないかとか)、こういうのでクレームする人はするんだろうねという話になったりした。

なんだろう、すごくしょうもない。

たった398円のお弁当の話でここまで盛り上がるのもおかしい。

実家に戻ってきてからずっとリモートで働いていて、お昼ご飯は3人で食べる日も多い。
そうしてご飯を与えてもらって食べていると、34歳にもなってものすごく自分が子どもな気持ちになってくる。

子ども部屋おじさんとか、子ども部屋おばさんという言葉を聞いてどきりとしたのだけれど、一応働いているし・・・生活費も入れているし・・・息子を育てているし・・・なんて自分を正当化している。

でもなんというか、実家にいるとマインドが子どもに戻る気がしている。
幼い頃ずっと見ていた風景が今も目の前で繰り広げられている不思議。
なぜか守られているような気持ちになれる安心感。

またいつかここから息子と二人巣立たなければいけないのだけれど、今はしばらく羽を休めさせてもらっている。

私も将来息子にとってのそんな存在になれるだろうか。

私の家に来るだけで安心したり、意味不明な会話のやり取りで笑ったり、ほっとしたり。
きっと、私が目指しているのはそういうお母さんで、そういう場所を息子に作りたかったのだ。

先のことはわからないけれど、そのことだけは覚えていようと思っている。
そんなことを、両親を見ながらふと考えた。

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