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【短編小説】2人の旅立ちのメロディー

晴樹はギターを弾く気がなくなった。毎晩のように駅前の広場で歌っていたのに。あれだけ愛用していたギターはケースに入れたまま、1DKの狭い部屋の片隅にぽつんと横たわったままだ。

このギターで、詩織のために曲を書いた。『思いを信じた先に』という曲だ。辛い別れを味わったばかりの、路上ミュージシャン仲間の詩織を想い、曲をプレゼントしたのだ。それは詩織を励ます曲であり、詩織本人が歌いながら笑顔になってくれることを目的にした作った作品だ。少ないコードでストレートな曲調を作る晴樹らしくなく、途中で2度の転調を迎える繊細な曲だ。その繊細なメロディーは、知り合って半年になる詩織への積もりに積もった思いを秘めていた。

ところが、詩織は晴樹の思いに全く目もくれないように見え、その曲を歌うことを一切しない。詩織をイメージして書いた曲ではあるが、それが今一つ詩織の気に入らないのならまだわかる。しかし、それが晴樹への拒絶反応だとしたら…

そう思い詰めるにつれ、晴樹はギターに手が伸びることが苦しくなった。就職とともにプロになる道を諦めてからも毎日のように、仕事が終わるとギターを抱え、人込みでごった返している最寄りの駅の東口広場前に立ち、己の声を雑踏の真ん中で枯らしていたのに。

自分の精一杯の思いが詩織に届かず、力が抜けてしまっていたのだ。ギターに手が伸びないということは、歌えないということだ。自分自身のすべてをさらけだして自分の存在を世間に晒す、という快感が、詩織への思いが叶わないだけで、いとも簡単に壊れていった。

定時に仕事が終わり、久々に詩織が歌っているはずの駅に向かう。いつも普段はギターを取りに家に帰っていたのに、今日は直行だ。ギターを持たず、手ぶらで駅に向かう。歌うことはない、ただ聴き役に回るだけだ。自分の歌になど目にもくれない詩織の澄んだ歌声を。

大通りを進む先には駅舎が見える。そして人が行き交う東口からタクシーが入れ替わる広場に横たわる通路に、キーボードを奏でながら腰を下ろしている詩織がいた。じわりじわりと大きくなる彼女の歌声を耳に伝いながら、晴樹は好きから憎しみに変わるはざまを彷徨い歩いていた。

*****

大学院で学ぶ詩織は、キャンパスから駅までは歩いて10分。軽音楽部の部室に置かせてもらっているキーボードを丁寧にケースに入れて、ほぼ毎日この駅前の広場まで歩き、いつも同じ街路灯の下で歌っている。

詩織には「属性」と言える音楽ジャンルはない。キャロル・キングからLiSAまで、興味を持った歌は何でも挑戦している。幅広い性質をもった曲群を、少女と大人の間で揺れるような透き通った淡いボイスで聴かせる。これが自分の魅力だと思っている。「男受けを意識しすぎ」と女友達にからかわれたこともあったが、自分前で足を止める通行人が8割がた男性なので、この声の良さを信じている。

彼と別れたのは1カ月前。別れたというより、相手に別の女ができて一方的に別れを告げられたのだ。思えば、トヨタセダンを乗りこなす彼は大学から駅までいつも迎えしてくれるし、ライブが終わる時間が夜遅くになっても必ず家まで送り返してくれる人だった。

そんな日々が1年続いたある日、「好きな子ができた」との電話の一言であっさりと終わってしまった。セダンの助手席に乗せる可愛い子が現れたのだろう。元々音楽にはほとんど興味のない男。自分に飽きていると薄々感じてはいたが、あっさりと乗り換えられたものだ。

もちろん悲しくないと言われたら嘘になる。おしゃべりで冗談好きの彼といるのは楽しかったのだから。彼氏でなくなるのはやはり辛い。でも、歌っているときは、心の痛みは忘れられる。歌うことで、傷は乗り越えられる、その思いで、今日も詩織はこの場所で歌うのだ。

この曲で今日は最後にしよう。そう思い歌い始めたとき、晴樹がやってきた。詩織はNIKIIE(ニキー)の『 Colourful』を歌う。晴樹の知らない曲だ。晴樹は直立しながら声もかけず聴いている。聴いているというか、歌い終わるのを待っている。

歌い終わり、通行客にお礼の言葉をかけると、キーボートを片づけ始める。ここでようやく晴樹が声をかける。

「おつかれさん…」
「晴樹、最近ギター持ってこないよね。もう歌わないの…」
「え、うん、何か歌う気分じゃないんだよね」
「あんなにいつも声を張り上げていたのに」
「ああ、いつでもあんな調子ってわけにはいかないからさ」
「いつもこの場所で晴樹が頑張ってるから、わたしもできるだけ毎日ここに来て歌おうって思ったのに」
「ああ、そうなんだ」
「あいつと付き合ってる時もそうだったけど、別れてからは特に、晴樹にもここにいてほしかった。なんか自分が強くなれるような気がしてたから」
「あ、そう」
「そうよ」
「そんなこと、言ってくれないとわかんないよ」
「言わなくたって、わたしがここで歌うことで、晴樹がわたしの気持ちを感じてくれるかなあって思ったのよ。別れたとき、一番真剣に話を聞いてくれたの、晴樹だったし」
「わかるわけないよ。俺はそんな天才じゃないから」
「わかってくれそうな気がしたんだけどな…」

晴樹はもうこれ以上会話をしたくなかった。
――俺の気持ちをもてあそんでいるのか…
悔しさがこみ上げる。俺の気持ちを知ってるくせに、俺をからかうことで、振られた悲しみを解き放とうとしているのか。男なら誰からも抱きしめたくなるようなかわいい声で、俺をもてあそぶなんて…よけいつらくなるから。

これ以上会話を続けると、ケンカになりそうな気がした。訳もわからずカッとなりそうなのがわかるのだ。もうこれ以上話す気にはなれなかった。詩織のキーボードの片付けも終わらないうちに、晴樹はその場を立ち去ることを決めた。

「じゃあね…」
「あらもう帰るの?」
「うん」
「わたしね、いまインスタとTikTokでも歌ってるんだよね」
「え?」晴樹は知らなかった。
「新しいこと始めようと思ってね」詩織は晴樹にこの日一番の笑顔を見せた。

晴樹が心配するまでもなく、詩織は一歩も二歩も先を進んでいる。詩織のことをどれだけ心配しただろう。どれだけ応援しようと思っただろう。あのプレゼントした曲も丸2日かけでできた。それほど気にかけていた詩織が、もう吹っ切れて、見知らぬ世界を目を輝かせて見つめているように思えた。

それからのことは、晴樹はよく覚えていない。詩織を心配しつつずっと思い続ける自分と、とっくに前を進んでいる詩織。2人の心模様がこれ以上可視化されるのがつらくて、急ぎ家へと直行したのだろう。気がつくと晴樹は既に帰っ帰宅していた。スマホを開き、インスタで詩織のアカウントを検索していた。

詩織のアカウントはすぐ見つかった。タイムラインを見ていると、アカウント開設してまだ1ヶ月も経ってないようだ。彼と別れてから立ち上げたのがわかった。

紹介ページに並んでいる動画をひとつタップすると、自撮りのカメラ目線の詩織がささやき始める。

「私の夢は、この世界が争いのない平和な世の中になることなんです。そんな願いを込めて私はインスタを通して、歌を届けていきます。。この歌声が、今辛い思いをしている人に届けばいいなって思ってます。聴いてください…」

――今辛い思いをしている人か…
晴樹の中に引っかかりを感じていると、詩織はオリジナル曲を歌い始めた。それは晴樹が初めて聞く曲だった。

*****

詩織が帰宅したのは晴樹が去ってから2時間後のことだった。詩織の住むアパートは、歌を披露する駅から3駅目の地点にある。今日は自炊する気が起きず、駅前のファーストフード店で軽くバーガーで済ませた。

帰宅すると、詩織はここ最近日課になったことを始める。インスタライブの配信だ。

開設してまだ1ヶ月なのに、もうすでにフォロワーは1,000人を超えている。2日前のライブで、次の配信は今日の10時からと告知している。待ってくれているフォロワーが少なからずいる。

さっき駅前で弾いたばかりのキーボードを再びセッティングする。電源をつけて軽く5分ほどセルフリハ。今回はカバーを3曲披露するつもりだ。

インスタアプリを起動する。コメント通知がたくさんきている。通知一覧に目をやると、「wankochanking」という見慣れないアカウントからのコメントがずらりと続いている。何気なくコメントを開いてみる。

「頼んでもいないのに下手な歌を歌うなよ!」
「可愛いからってみんな好きだとは思うなよ!」
「自分に酔ってるんじゃねえよこのブス!」

辛辣なコメントばかりだった。
――たまにはこんなコメントがくるのも仕方ないか…

10時になりスタートしたライブ配信。順調に歌っていた詩織だったが、スマホ画面をのぞくと、またもやからの「wankochanking」コメントが流れていた。「下手」「ブス」の言葉が混じった醜い言葉の数々を立て続けに流していたのだ。

次の配信日にも、このアカウントからのアンチコメントは続いた。何とか歌い終わりコメントを見なかったふりをしてやり過ごしたが、詩織には重い疲労感と、そして悲しみが襲い掛かった。

さらに「wankochanking」は、動画以外の写真投稿にも次から次へとアンチコメントを寄せていた。1つの投稿に立て続けに5個もアンチコメントを連打しているものもあった。

――あんた一体何なのよ‥‥

この匿名のアカウントをたどると、どこかの無料画像提供サイトから拾ったと思われる犬の画像がある以外は、プロフィールには何も書いてなく、投稿も一つもない。まったく素性が見えないアカウントだ。

アンチコメが始まったのは、そう、詩織が晴樹と最後に会った日の夜からだ。それから数日、心ないコメントが続いている。

――まさか…
脳裏に「思ってはいけない思い」がよぎる。
――そんなはずはないよね、晴樹が…
晴樹はそんな卑怯なことをする男ではない。人を平気で傷つけるような男ではない。

今すぐ晴樹に連絡して確かめようかしら…一瞬そう思ったものの、行動には起こせなかった。晴樹が犯人でがないとして、「俺のことを疑ってるの?」と思われたくない。晴樹と仲たがいする気持ちなどさらさらない。

――晴樹、違うよね…?

詩織には純粋にギターを鳴らして歌う晴樹の姿が浮かぶ。「晴樹はぜったいこんなことをしない…」という晴樹を信じたい気持ちがくっついて離れない。それは一晩続き、ついに詩織は眠りにつくことができなかった。

結局ほぼほぼ一睡もできぬまま朝を迎えた。大学に行かねばならない。午前に講義が控えている。

何とかしないと思った詩織は「wankochanking」にDMを送ることにした。「もうやめてください。これ以上続けると、通報します」とだけ打って。

*****

そしてその日の日暮れ時。詩織は駅の東口前広場にやってきた。これからいつもの街路灯の下でライブ演奏だ。

――晴樹は来るだろうか…
演奏中、気になっていたのは晴樹のことだった。思えば、同じ広場で、自分が歌う場所からほんの数10メートル先の真正面のスペースで歌っている晴樹を何度となく見ていたのに何ら意識することなかったのに、今日はなぜか、その場にいない晴樹が気になって仕方がない。

――今日は来ないのかな…
最後の歌を歌い終え、引き上げようとキーボードを片づけようとしたとき、聞き覚えのある声がした。

「おつかれさん」
晴樹だった。

「晴樹、来てくれたのね…」
「うん」
「今日は来ないかと思った」
「うん、考え事をしていて、こんな時間になっちゃった」
晴樹は、何か思いつめたような表情をしている。

「詩織、ごめんね、悩ませてしまって」
「え?」
「俺ね、もう詩織とは会わないようにしようと思う」
「どうして!」
「俺の存在がもう邪魔だろうと思って」
「なんでそんなこと言うの?」
「俺の気持ち、知ってるだろ?」
「え?」
「もうこれ以上、苦しめたくないんだ。俺ね、詩織のいんすつぁの動画も見たし、ライブも見た。詩織はもう吹っ切れて、新しい道に進んでいるんだなって思った」
「でも…」
「おれの存在が邪魔になるし、重い気持ちにさせてしまうと思ったんだよ。あれからずっと考えて、もうこれまでのようなミュージシャン仲間ではいられないって…」
「そんなことないよ…」
「また詩織と一緒にいると、すぐ気持ちが湧いてくるからさ。好きだという気持ちが…」
「うん…」
「だから、これ限りにするよ。この場所を離れ、どこか別の駅前で再出発するよ。そしたらまた、ギターを弾きたくなるだろうし、歌いたい気持ちも戻ってくるだろうから」
「う、うん…」

素直に詩織への恋心を認めた晴樹。それは晴樹がずっと胸の内に秘めていたことであった。「好き」の一言がどうしても言えなかった晴樹。詩織の前からいなくなる、という決意をしたあとでやっと隠し隠ししてきた本音が口をついてきた。この勇気がもっと前からほしかった。何という皮肉だろうか。

「あの、晴樹…」
「なに?」
「い、いや、いいの、わざわざ伝えてくれてありがとう」

昨日の晩から気になり続けた晴樹への思い。一晩中頭から離れなかった晴樹の姿は、晴樹のことを信じたい一心のはずだった。

ところが晴樹から「もう会わない」と告げられた今、晴樹に対する「それ以上」の思いが詩織の心をぎゅっと締め付けていたことに、詩織はとうとうたどり着いた。そう、この気持ち、「好き」だったのかな…

しかし、こんな短時間で、今の思いを伝える勇気はない。晴樹が長い時間、考えに考え抜いて打ち明けてくれたのだ。自分にだって気持ちを整理し、適切な言葉を選ぶ時間がほしい。どうしてもほしい。しかし、別れの意志の固い晴樹の前では、その時間の渇望はただただ空しい。

詩織は何も発することができないまま、二人の間に微かな風だけがひんやりと流れる。晴樹が口を開く。

「元気でね。頑張ってね。絶対に、夢を叶えてね」
そういって、詩織に背を向ける。もう何も言わないでくれ、と言わんかのごとく、その背中は、突破を決して許さない分厚くて高い壁に見えた。

「晴樹もね…」
その声は晴樹に届いたかどうかわからないほど、小さく弱く、細々しいものだった。

*****

詩織の方を振り向きもせず、晴樹は帰宅の途についた。狭い部屋に明かりをつけ、ベッドにゆっくりと腰を下ろす。

すぐの寝っ転がってしまいほど、晴樹は疲れ切っていた。思えば、秘め続けていた詩織への正直な思いと、そして別れの言葉とが重ね合った告白だった。

言いたいことはすべて言い切った。もう傷つきたくないし、傷つけたくもない。もう未練は残さないと決めた。

寝る前に、大きな仕事が残っている。それが済むまでは寝ることができない。これから、詩織との思い出をすべて消す作業だ。電話帳から詩織の名を消す。LINEも消す。そしてすべてのSNSのフォローを外す。

最後にのぞいたのは例のインスタだ。夢に向かって新たな道を歩み始めた詩織のアカウントだ。もう2度と見ないと固く心に決めた。

せめて詩織への思いを絶った時間でも記憶しておこう。壁を見上げると、時刻は22時を指していた。

*****

詩織も部屋に戻った。右手に握りしめたキーボードの重さがぐっとのしかかる。これまでに味わったことのない、生気のない帰路だった。

晴樹との最後の瞬間に芽生えた、いや気づいた彼への思い。全く言葉に言い表すことのできぬまま、2人は今夜、別離した。

詩織は全く予定にはなかったインスタライブを行うことを急遽決めた。インスタを開いてみる。すると気づいたことがあった。

あの「wankochanking」からのアンチコメントがすべて消されている。「wankochanking」自体のアカウントも消去されている。今朝送信したDMが効いたのか、詩織を数日悩ませたアンチアカウントがすでに存在しなくなっていたのだ。

あれは誰の仕業だったのか?晴樹だったのか?結局、晴樹に真相を聞きそびれてしまった。もう真相は知ることができない。しかし、それでよかったのかもしれない。

ライブが始まった。1曲目に、詩織は歌ったことのない歌を歌い始める。4つ折りの紙切れに書かれた歌詞とコード。丁寧な字で書きこまれている。歌詞の下には、名前が書かれている。「HARUKI」と。

歌いながら、詩織の目に涙がこぼれおちる。その瞬間から、画面上に「いいね」が嵐のように吹き渡る。視聴者はこの涙の意味は全く知らない。詩織の突然の涙に驚きと困惑が、そして笑顔を浮かべつつも頬を伝う涙をぬぐうことなく無心に歌い上げる詩織の美しさにみとれての、なんとも複雑な思いが混じり合った「いいね」のシャワーがとめどなく流れ続ける。

時刻は22時。紙切れの先頭には、タイトルが書いてあった。『思いを信じた先に』と。






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