「忘れる」ことはよくないこと?
大学院の「自然学」の授業を受けて考えたことです。
「忘れる」という人間の性質と災害の記憶
今回の授業のキーワードは「忘れる」だった。
この言葉を聞いたとき、私の頭に浮かんだのは寺田寅彦の名言「天災は忘れた頃にやってくる」だ。
この言葉は、「忘れた頃にやってくるからこそ天災なのだ」とも言い換えることができるだろう。
自然は常に過去の習慣に従って動いているのに対して、人間は目の前の利益や日常に囚われ、過去の出来事をつい忘れてしまう。
その「忘れる」という人間の性質を、寺田は「人間界の自然法則」と称している。
災害や危機を防ぐためには、過去の記憶や記録を維持することが重要であり、それに逆らうための努力が必要だ。
先生は、災害を「忘れる」ことを防ぐことを「防忘災」と表現し、その言葉が印象に残った。
しかし、忘れることを望む人もいる。
被災の経験を忘れたいという人。
あるいは知らないふりをしたいと願う人たちがいる。
後者は目の前の生活で精一杯で、他の人のことまで考える余裕がない。それは理解できる。
他の学生が前回の授業で、「命を脅かす存在を排除し、ないものにしてしまう現代人」というコメントをしたが、これと同じような感覚が働いているのだろう。
人は自分の安心や安全を守るために、忘れるという選択をすることがある。
私自身も、他の授業でガザ問題に触れた際に、戦争を考えるのが怖くてニュースを見ることすら避けていた自分に気づかされた。
現代社会において、情報化やグローバリゼーションが進む一方で、私たちは過去の出来事を物理的に「忘れる」ことが難しくなっている。
しかし、皮肉なことに、テクノロジーや情報の過多によって、逆に「忘れる」という行為を意図的に選択できるようにもなっている。
情報社会がもたらす「選択的な忘却」
情報社会においては、膨大なデータが蓄積され、常にアクセス可能である。ニュースや記録がどこにいても手に入る時代に、「忘れる」ことは物理的には難しい。
しかし、膨大な情報に囲まれることが人々に選択的な「忘却」を促しているという逆説的な状況も生まれている。
多くの情報があるからこそ、自分が向き合いたくない情報や不快な記憶を無視することができるのだ。
これにより、人々は自分の感情や記憶に選択的なフィルターをかけ、あえて忘れることを選んでいる。
これは、「現代人は脅威を排除する」という姿勢と重なり、さらに人々が情報を過剰に取り込みつつも、何を覚え、何を忘れるかをより意識的に選ぶようになっていると言える。
忘れることの是非
このような現代の情報環境において、私たちは「忘れる」ことに対してどのような態度を取るべきなのだろうか。
災害の記憶や戦争の記録は、忘れてはならない大切な歴史だ。しかし、個人の心理的な安全や日常生活を守るためには、あえて「忘れる」ことが必要になることもある。
忘却がもたらす安堵と、忘れ去られることの危険性との間で、私たちはバランスを取ることを求められている。
「忘れる」という行為がもたらすメリットとデメリット、その両方を考えながら、私たちは何を覚え、何を忘れるべきかを選択していかなければならない。
そして、その選択こそが、個人として、そして社会としてどのように未来に向き合うかという問いに直結している。
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