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昨日の亡霊、明日の幻

 立ち止まること、正確には、立ち止まらざるを得ないことが増えて、これまで以上に「生きる」ということの意味について考えるようになった。

 私には動く手足があり、食べられる口と内臓があって文字が読み書きできる頭もある。満足に、とはいかないが歌える声もあるし、怒りや悲しみを御する論理も、人とくらべずにやり過ごす理性もある。

 それでもなんらかの不具合、なんらかの誤作動がおきているようで、こころとからだが連動しない日々が続いている。
 日々、という言い方は問題を矮小化しているかもしれなくて、きっと年単位で私に染みついた癖であり、認知であり、習慣だ。
 私は「これ」を持ったまま社会生活を営むすべを身につけてしまったので、じりじりと悪化して今日(こんにち)に至るまで、そのような事象を身近な人に見ても、遠からずと感じるいっぽうで、自分ごととして受け止めることを避けていたところがある。
 もっと言えば、自分は乗り越えてここにいると考えていた。


 いま、焦らないために自分に言い聞かせていること。
 今は、マイナスからゼロにもっていく時期だから。このマイナスは今とつぜん目の前に現れたわけじゃないから。マイナスを仮の詰め物で埋めて何年も過ごしているうちに、治療箇所が悪化してしまった。それを一度あけて綺麗にしなきゃいけないから。
 だから、起きられないのも、感情が噴出するのも、苛まれるのも、目標に向かって努力することができないのも、廃人のように文字を吐き出すのも、全部必要なことなんだよと。


 生きるってなんだろうって考える。意義をもって、上昇志向をもって、成長することが生まれてきたものの義務だと考えてきたわけではない。結果的にそういう道を選び、そういう目標を持ってきたことは事実だけど、それだけを生きることの意味だと考えていたわけではない。

 考えていたわけではないが、そう感じていたこともまた否めない。そう感じていた自分が今の自分を苛む。いや、これまでもどこかで気づいていた「弱く、病んだ自分」に対して、進むことをやめたらその穴に落ちるぞとせき立てたがゆえに、向き合うことを許さなかったこともわかっているし、ずっとわかっていた。

 私はとにかく過去の余波で今のくらしが脅やかされることがめんどうだった。そう、めんどうだったのだ。
 なんでもいい、楽に生きたい。私が楽に生きるには、高い(ように見える)目標を掲げて、それに没入しているのが手っ取り早い。
 そうしているうちに、そんなものは遠くに消え去ってしまうだろうと。

 だけど、現実問題として私のくらしは「脅やかされる」ほど穏やかでもないし、滞りなくも恙無くもなかった。いろんなところに無理がきていた。近い人にほど迷惑をかけて、そのたびに自尊心を自ら削っていった。


 満たされなかった過去、傷ついた過去、というものを持ち出すのは成熟したおとなのすることではないのだ、と、どこかで感じていた。
 といって、とにかく私には「しあわせ」とか「日常」のロールモデルがないということなのだと思う。
 最近(ようやく!)通い始めたお医者さんは「帰巣本能」という言葉でそれを説明してくれた。ここが私の帰る場所だと、当たり前の、安心出来る日常だという感覚がもてないということだ(動物の話以外で「帰巣本能」という言葉を聞くのははじめてだった)。
 まさにそういうことなんだろう。

 そんなもの、これからどうやって築いていけるんだろう。
 たぶん、朝起きた時に、というか、目覚めてから体を起こすまでの何時間、のあいだ、に格闘する不安感は、そういうところから来ているのだろう。
 私は自分が、どこから来たのかも、どこへ行くのかも知らない。そのくせ、死ぬのが死ぬほど怖い。
 このまま死へ向かっていくだけなのだろうか、という思いにひたすら襲われる。
 そういうことが半日も続いて、夕方になってやっと起き上がる。そういう生活の中で、こうして、文字だけで誰かとつながっている。かろうじて。


 あした、はじめてのカウンセリングに行く。
 正しくは「はじめて」ではない。二十歳そこそこの頃に行ってみたときにはうまく話せなくて、そしてきっと相性の問題もあってだと思うけど、有り体にいって「相手にされなかった」。だから、何年も「カウンセリング」というものに対しては諦めを持っていた。
 今の主治医いわく、カウンセリングは相性以前に当たり外れも大きいし、そして、当たり外れ以前に、カウンセラーと名乗ることは誰でもできるという現実がある。だから、きちんと選ばないとかえって悪いことになる、とのことだ。
 当時はそんなこと知らなかったし、誰も教えてくれなかった。


 失われたものが戻ることはないし、傷がなかったことになるわけでも、屈託のない人生が送れるようになるわけでもないだろう。
 どこかに妥協点をみつけて、それなりの、それなりにいい、今よりは楽なまいにちが訪れるのかどうか、まだ想像もつかない。想像もつかない、ということこそが病理なのだろうから、あたりまえなのだけど。

 ただ、「明るい人生」も「暗い人生」もきっと幻想で、だからカラクリとしては私がどう捉えるかでしかなくて、そこに何の保証もないけれど、何が起きてもどの前提がはたらくかで見え方が違うだけで、現象に対しての実態などというものにさほど意味はないのかもしれない。

 ……そういうことを考えれば考えるほど、あまりいいほうにいかない気はする。

 いまの私はかつてにくらべればずっと恵まれていて、助けがあって、自由もあって大切にされている。にもかかわらず、その「実体のなさ」が影のようにつきまとう。

 私は明日、こんなことをどうやって話せるだろうか。
 遠い遠い過去のことは、もう他人の人生みたいだ。
 未来は未来で、私には掴めようもない夢物語のようなのだ。

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