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美術史第57章『マウリヤ朝の美術』
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マウリヤ朝の登場以前、前6世紀頃、釈迦が仏教を興した頃の北インドでは、北西インド、現在のパンジャーブ地方と東部インドのガンジス川流域を中心として十六大国を中心とした多数の国家が成立していた。
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中でもマガダ国とコーサラ国が強国となっていたのだが、このマガダ国の王ビンビサーラが仏教に入信した事で、仏教は拡大、それ以降のインドでは仏塔やそれを飾るレリーフといった仏教美術が作られ始めた。
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当初は作るのが避けられた菩提樹、足跡、傘蓋、台座などで代用されていた釈迦の形をそのまま作ってしまった「仏像」も北西インドのガンダーラと中部インドのマトゥラーで登場した。
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その後の前4世紀にはギリシアを統一しそのままオリエント世界を統一した超大国アケメネス朝を滅ぼしたマケドニアのアレクサンドロスがパンジャーブ地方を占領、以後北西インドは数百年に渡りギリシア人の支配を受ける事となった。
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それと同じ時代に拡大し北インドをほぼ統一したのがマウリヤ朝で、その三代目でインドをほぼ完全に統一したアショーカ王が釈迦の遺骨を分けて多数の仏教信仰のための建築物である仏塔を建立、各地で石柱に法律を書いて仏教を利用した国の整備を行い、それらの石柱は「アショーカ王柱」と呼ばれる。
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それは、ガンジス川流域のチュナールという町で採掘された淡い灰青色の砂岩を地上に出ているだけで10m以上の長さでくり抜いた柱に、ライオン、牡牛、象、馬といった動物を象った柱頭を付けたもので、この柱の起源は超大国アケメネス朝ペルシアにあるとされる。
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現存するアショーカ王柱の中でも仏教の聖地の一つでガンジス付近のサールナートで発見されたライオンの柱頭の部分はインドの国章に指定されており、柱頭ではない彫刻では「ディーダルガンシ・ヤクシー」という優れた研磨技術が使われた女神象が代表的だが実際には後の時代に作られたものの可能性が高いともされる。
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その後の紀元前2世紀末期、マウリヤ朝が軍人の反乱により滅亡しその軍人がインド北東にシュンガ朝を樹立すると仏教ではなく古来からのバラモン教が保護されたものの、マウリヤ朝で建設された仏塔のレンガを石積にして改修する、周囲を囲う欄楯の補強などが行われた。
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例えば、有名な遺跡サーンチーの塔はアショーカにより建てられたものがシュンガ朝により増築され、その後の紀元前1世紀に中部インドを統一したサータヴァーハナ朝でレリーフが施されたもので、他にもバールフトという遺跡が古代インド美術において重要である。
石窟について
インド美術を特徴づける石窟寺院の数はインド全体で千数百ほどにのぼると思われ、インド土着のヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教の全てが石窟寺院を造営しており、石窟寺院が多く作られた理由としては、開掘に適した岩山が多いという地形的要因や、インドの猛烈な暑さを避けるためという気候的要因、そして岩山を人力で掘り出すという労働自体が宗教上の徳となるという思想的要因があるとさる。
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最古期の石窟寺院としてはビハール州の丘に作られたアージーヴィカ教という現在では消滅してしまった仏教とジャイナ教が生まれた時期と同じ頃に誕生し宗教のものがある。
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その後、本格的に石窟が作られ始めた紀元前2世紀から紀元後2世紀にデカン高原北部に造営された「アジャンター石窟寺院群」などの石窟を前期石窟と言い、その後一度途絶えた後、中世の5世紀頃から8世紀頃まで造営されたものを前期石窟と呼び、前期石窟は主に仏教石窟、後期石窟は主にヒンドゥー教石窟で、ジャイナ教石窟は前期石窟と後期石窟の両方に少数存在する状態となっている。
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古代の前期石窟の様式としては天井に別にいらない垂木の部分を付けるなど当時の木造建築を模しており、絵画や彫刻による装飾は少ないが、アジャンターには保存状態が悪いものの西暦前後に作成された仏教絵画の最古のものがある。
また、仏教の石窟には信仰の対象である仏塔を祀るため空間がある「チャイティヤ窟」と修行僧の住居として作られた「ヴィハーラ窟」の二種類があり、仏教石窟寺院の中には1つ以上のチャイティヤ窟と複数のヴィハーラ窟が設置される作りになっているという共通点があった。
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