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【光科学史】量子論誕生までの300年の歴史をざっくり眺めてみよう

このNOTEは計算式を使わずに、光に関するざっくりとした科学史をたどる感じのエッセイです。よろしくお願いいたします。

1600年代中盤:虹の七色と白色光の関係

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雨が降った後や滝のそばに現れる虹🌈は古代からのナゾでした。「どうして色順が逆の1対の虹が、毎度毎度同じくらいの高さに現れるんだろう?」という疑問に一つの答えを出したのはデカルトでした。1637年、彼は虹は大気中の細かな水滴が太陽光を屈折させるために色づいて見えることを数学を使って証明しました。これによって色づく場所については分かったのですが、どうして場所ごとに違う色がついているのかまでは説明できませんでした。

少し経った1666年、ニュートンはプリズムを使って白色光を七色に分光してそれに見入っていました(プリズムを使えば七色の光に分けられるという現象自体はそれ以前から知られていました)。七色と言っても実際は無数の色の集合なんですが、当時は音楽も科学の一つと考えられていたので、七音と七色を結びつけて考えるのが粋だったから ”七色” にしたみたいですね。

さて、ニュートンは一度この分けた光を再び集めて白色光に戻すことに成功したことから、白色光は屈折率が違う様々な色の光が混ざり合ってできていると解釈します。そして、虹が七色に見えるのは(上のアニメーションのように)大気中の水滴がプリズム代わりになることで「主虹は上から赤・橙・黄・緑・青・藍・紫の順に(副虹はその逆順に)色が並んでるんですよ」と説明することができました。

1676年:光の速さは無限大じゃない

1638年、地動説で有名なガリレオは雷には光の切れ端があることから、光の速さは測れるはずだと確信します。でも、光はガリレオの予想を遥かに上回る速さだったので測定は上手くいきませんでした。彼の著書『新科学対話』には「光の速さを測定しようとしたんすけど、速すぎて分かりませんでした……でも、頑張れば測れるはずなんっすよ」という感じの内容が書いてあるそうです。

1676年、レーマーは木星の衛星イオが木星の裏に回り込んで隠れる現象 ”食” を利用して初めて光の速さを秒速約21万キロだと求めました。現代の秒速約30万キロという数値と比較すると、桁数が合っているので非常に近い数値です。でも、当時は宇宙に関しては分からないことだらけだったので科学者たちは「地上で測った結果なら納得するんやけどなぁ」という感じであまり信用はされませんでした。ちなみに、初めて地上で光の速さが測定されたのは1849年なので、レーマーの時代から170年以上も後になっています。海王星の公転周期(165年)とほぼ同じくらい時間がかかってますね。

1800年頃:赤外線・紫外線の発見

1781年に天王星を発見したハーシェルは、1800年にプリズムで分けた光のスペクトルの中に当時開発されたばかりの水銀温度計を突っ込んで動かすと温度が上がることに気がつきました。その後、意図せずに赤色から外側2cmほどの場所にその温度計を置いておいたところ、不思議なことに更に温度が上がっていることを発見します。

「ってことは、赤の外側にも見えへん光があって、それが水銀を温めてるってことよな?」ということで、赤外線の発見に至りました。ちなみに、翌年の1801年にはリッターという人が「赤の外側に何かあるんやったら、紫の外側にも何かあってもおかしくないやろ?」っていう理屈で紫外線を発見しています。

1859年:黒体放射と太陽表面温度推定の原理

1859年、数学界では素数に関する大きなナゾ「リーマン予想」が発表されましたが、この年には熱力学の分野にも動きがありました。電気分野で彼の名を冠した法則もあるキルヒホッフは、それとは別に光と熱の放出と吸収の関係について考察を行いました。

キルヒホッフの法則(放射エネルギー)をざっくり要約すると、あらゆる光を吸収してしまう真っ黒な物体を同じ温度(熱的平衡状態)にしておくと、物体と物体内部の空洞が物理的に等価になると言うのです。実はこれは太陽表面の温度を推定するための原理にもなっています。分かりにくいのでちょっと絵にしてみましょう。

図7 黒体放射1+3

太陽表面の温度は直接観測できないので、黒い物体(黒体)を疑似太陽に見立てて加熱し、それから得られるスペクトルデータと実際の太陽のスペクトルデータとを見比べます。ちょうど両方のスペクトルが一致した時、その時の黒体の温度=太陽表面の温度だと推定しようという作戦です。この方法で実際に求めてみると、太陽表面の温度は大体5500℃らしいということが分かっています。

1900年頃:黒体放射を完璧に説明する数式が分からない

ある温度における黒体放射の実験結果を下のスライドに示しました。

図9 黒体放射4説明不可

1896年にウィーンが導いたウィーンの式は短波長側、1905年にレイリー卿ジーンズらが導いたレーリー・ジーンズの式(式の原形が発表されたのは1900年)は長波長側について実験結果を上手く説明することができました。しかし残念ながら、両方ともスペクトル全域に亘って説明することはできませんでした。

1900年末:量子論の誕生

もともと、ウィーンの式は光を粒子として、レーリー・ジーンズの式は光を波動として捉えて導いた式でした。つまり、上のグラフは短波長側で光の粒子という側面が優勢に、長波長側では光の波動という側面が優勢になっていることを表していると言えそうです。そう考えると、もしスペクトル全域を説明する式が導けたなら、光は粒子性と波動性を同時に兼ね備えていることになってきます。俗にいう、粒子と波動の二重性ですね。

1900年の暮れ、プランクは8週間ほぼ不眠不休でこの実験結果を説明するための理論構築に取り組みます。考え抜いた末に、エネルギーが飛び飛びの値を持つという量子仮説を黒体放射に導入すると、スペクトル全域について実験結果を見事に説明するプランクの式を導くことに成功します。このことから、光は粒子と波動の2つの性質を備えていることが確定しました。

自分としては、量子仮説が導入されたこの年がおそらく量子論誕生の年だと勝手に思っています(キリもいいですし)。

終わりに

光科学の歴史300年分を非常にざっくりと見てきましたが、時系列で追っていくと物理と数学と天文学(と化学とか)のイメージがあった偉人が別の分野で登場することがあります。個々の科学的な理解はできなくてもそういった歴史的な意外なつながりがあることが分かると「へぇ、そうなんや」っていう感じでめっちゃ面白いと思いますねぇ ( 'ω' ).。oO( 現代に行くほど難易度がエグくなるし、量子論は死ぬほどムズイっす...




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