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ヒトラーを見たドイツ人の本音「私は今日にでも彼を支持しています」

以前、戦後生き残ったヒトラー親衛隊の本音を紹介しましたが、思った以上に読まれており、私としても嬉しくありました。今回は、ヒトラーを見たドイツ人の言葉や、ヒトラーに関するアンケート結果を紹介していこうと思います。「私はヒトラー、ナチスに騙された被害者である」「もう二度とナチズムはごめんだ」このような言葉ではないドイツ人の本音について私はそこに注目し、一部絶版になっているであろう書籍の中から紹介していきます。

▼元ヒトラー親衛隊の本音▼

<参照・引用>
『君はヒトラーを見たか』(サイマル出版社)ワルター・ケンポウスキ編/到津十三訳
『ドイツにヒトラーがいたとき』(誠文堂新光社)篠原正瑛著
『ヒトラーの遺言』(原書房)篠原正瑛訳
『ヒトラーへのメディア取材記録 インタビュー1923-1940』(原書房)著:エリック・ブランカ、訳:松永りえ


ヒトラーは約束しドイツを復活させた

まず最初に伝えたいこととして、経済を再び軌道に乗せることを約束したのはヒトラーただ一人だけだったことです。当時、労働者も中産階級も資本家さえもヒトラーが約束を達成できるとは思ってもいなかったのですが、ドイツはパニック状態にあり、藁でもつかむ状況でした。そのような状態でドイツ国民はヒトラーに希望を持ったのは当然であり、そしてヒトラーのドイツ経済復活は世界でも類にない軌跡そのものでした。

▼ヒトラーの経済政策について▼

ヒトラーのやり方を、彼のユダヤ人に対するやり方に対して異を唱えるはその人の勝手でしたが、敗戦し世界恐慌のダブルパンチでどん底にあったドイツ経済を生き返らせたこと、ドイツ人として再び世界で胸をはって歩けたこと、これに反抗することは誰にもできませんでした。

ヒトラーを見たドイツ人の言葉

ヒトラーを実際に見た人は彼にどんな印象を持ったのかについて、ドイツ人の言葉を一部紹介します。

ヒトラーを見たことがあるかというのですか。たしか戦争中に、いや戦争になる前の1934年、ニュルンベルクの下町で見ました。皆んなが、ニュルンベルクへ乗り物でやって来ました。皆んなが興奮していました。しかし、感心することは、彼が全てを約束したということです。彼は約束を守ろうといかに力をつくしたことか。ドイツは、大国ロシアに比べると、ボタンのように小さかったのです。(略)我々は、ヒトラーを一人の男らしい男としてしか知っておりません。彼が言ったことは、そのまま通用しました。(肉屋、1919年生まれ)

私自身、ヒトラーをよく知っております。そして、私は彼に極めて満足していました。彼はいつも親切でした。私は、二、三度彼と一緒になったことがありますが、彼はいつも非常に感じがよくて、打ち解けていました。私は入党以来、彼を知っておりました。(機械工、1911年生まれ)

私は1935年ケーニッヒスドルフでヒトラーを見ました。私がナチスの少年団に加入してから、ちょうど一年が経っていました。私は、この澄みきった目をした人を、立派だと思いました。乗馬ズボンと乗馬用長靴をはいた「愛する総統」の面前に立つことができるというので、我々は神聖な身震いを覚えました。それから、我々は、「総統が来る」というので行列を作りました。我々は、あるいは右脚で、あるいは左脚で静粛に立っていました。そこへ彼が来て、団員の閲兵をしました。そして誰かが、総統のために死ねと言ったなら、我々はためらわずに死に赴いたことでしょう。(商人、1924年生まれ)

私が生まれたのは1922年です。私の兄は突撃隊に入っていて、ある日、血まみれになって家に帰ってきました。そんなわけで、我々は以前から重荷を背負っていたのでした。そのような、家庭で育てられたのです。ヒトラーが政権を握る前から、私の両親の家にはナチがいたのです。全国党大会で、私は彼の前を行進する時に、彼を見ました。それは、忘れ難い印象でした。今日、我々はもはや、それを思い浮かべることができません。私は今日でも、ヒトラーを馬鹿にしたような話を読むと、腹が立ちます。全ては狂気であったとはっきり分かっていながら、腹が立ちます。ヒトラーは、優れた人物で、一つの体験でした。我々の胸は、高鳴りました。(卸商、1922年生まれ)

私は、ヒトラーを何度も見ました。ブレーメンとニュルンベルクの党大会の時に。我々は、本当に彼を見ることができました。人々が望んだ場合、彼は最善のことをしようとしました。彼は、彼なりに信仰の厚い人だったのです。彼は一度だけ誤りを犯しました。すなわち、戦争を始めて、敗北したことです。そうでなかったら、彼の立場は全く違うものになっていたでしょう。ブレーメンでは、彼は私のすぐそばを通り過ぎました。おそらく、2メートルの所を。彼は極めて自信に満ちた歩きぶりで、態度も落ち着いていました。彼は人々を惹きつけることができたのでした。確かに、私は若かったのですが、彼の演説には、聞くべきものがありました。私の意見を言えば、もしも彼がユダヤ人に向かって、「よろしいですか、諸君は管理職にはなれない。これこれの職業につくことは許されない」と言っておれば、彼は非難を受けることはなかったでしょう。しかし、彼は完璧を望み、常に完全な人間を望んだのです。それが、彼の犯した誤りでした。ユダヤ人と教会、それには彼は手をつけるべきではなかったのです。(農民、1911年生まれ)

当時、私は、ヒトラーを人間としてではなく、国家元首として見ていました。当時の私は、彼を批判的に眺めることは思っても見ませんでした。半ば夢を見ている気持ちだったのです。今日にでも、私はそうなのです。(新聞挿絵家、1920年生まれ)

ニュルンベルクの党大会で、彼は洗練された人でした。彼に賛成でした。彼はヒムラーとかいう、小ヒトラーとは別者でした。彼らが彼を蹴殺したのです。小ヒトラーが彼を蹴殺したのです。地方では小物の大管区長官が彼をだめにしたのです。彼は責任を回避しませんでした。他人に責任を負わせるようなことはしませんでした。彼は第一次世界大戦に、兵士として参加しました。彼については、彼は戦争に貢献があったということができます。しかも、彼は困難に屈しませんでした。私は今日にでも彼を支持しています。(鉄道保安官、1907年生まれ)

デッサラの大管区党大会で、私は彼に出会いました。その時、我々は、ヒトラー・ユーゲントとともに12列になって彼の前を、感激を持って行進しました。彼は、極めて、典型的な姿勢をとって、自動車の中に立っていました。魅了されましたよ。皆んなが、誇りに感じました。(医師、1921年生まれ)

はい、見ました。私は彼を尊敬していました。彼がやろうとしたことは、けっして悪いことではありませんでした。彼は、人を魅了する人でした。私はクルーゲ将軍の副官をしていた時に、ハンブルクの市役所で彼を見ました。その時、私は将軍の後ろにやや離れて立っていて、総統が各人と握手を交わしている様子を見ていました。それは、印象に残りました。彼は大きな濃い藍色の目をしていました。このような目は、フリードリッヒ大王もしていたのに相違ありません。濃い藍色の目で、彼は人々を見つめていました。そして、あまり上品な例えではありませんが、ちょうど蛇に睨まれた蛙のように、人々は催眠術にかかったようになりました。彼には説得力がありました。(大佐、1895年生まれ)

『君はヒトラーを見たか』(サイマル出版社)ワルター・ケンポウスキ編/到津十三訳

ヒトラー個人の評価は悪くなく、むしろ良かった

ナチス全体の評価とヒトラー個人の評価は必ずしも一致しませんでした。ナチスに対しては極めて否定的な感情を持つドイツ人でも、ヒトラーに対してはかなり好意的で親近感があったのです。よくドイツ人が言うのは「悪いのはヒトラーではない。本当に悪いのは小ヒトラー(ヒトラーの側近ら)あるいはザース兄弟(SAとSSのことをもじった表現)なのだ」と。『ドイツにヒトラーがいたとき』(誠文堂新光社)の著者は戦中も含めドイツに5年間留学していた日本人ですが、ナチス嫌いはあっても「ヒトラーの名を聞いただけで虫酸が走る。写真なんか見ると胸糞が悪くなる」というヒトラー嫌いにはほとんど出会わなかったといいます。ヒトラーはドイツ国民を大切にし、またドイツ国民もヒトラーを支持しました。ヒトラーはそれをよく分かっており、自分は過去どの王様よりも国民に愛されたリーダーなのだ。なぜならば、自分は国民の求めることを実行しているからであると外国のインタビュアーに語っています。そしてこれは決して誇張ではありませんでした。ヒトラーは国民を信頼し支持していたからこそ、オープンカーで平気に大衆の中に入っていきましたし、周りのSSは群衆の方に向くのではなく、大衆がヒトラーを見るように自分たちも同じ方向を向いて警備らしい警備はしませんでした。それはドイツ人も気づいており、自分たちは総統に信頼されていると思っていたのです。そこには父と子のような関係があったのでしょう。

とあるドイツ人は前述した『ドイツにヒトラーがいたとき』(誠文堂新光社)の著者にこう言いました。日本の天皇と国民の関係として、父と子であるといいながら、厳重な警備をしていることを国民はまるで犯罪者扱いにしており、これは本当は国民の父なのではなく力で国民を押さえつけてきた支配者なのだと。反対に総統(ヒトラー)ならどこにでも国民の中に入り、国民は誰でも親しくヒトラーと話せたし、これはヒトラーが国民大衆の名から選ばれて出て、総統になった証拠であると言いました。昔、日本では皇居前を通る際は市電や市バス関わらず車掌がアナウンスし、乗客は一人残らず立ち上がって皇居に向かって頭を下げなければならなかったのですが(これをやらなければ罰を受ける)、ドイツでは総統官邸にヒトラーがいる時も、国民は何不自由なく通行でき、ヒトラーが国民に向かってバルコニーから姿を表す際も警備らしい気配もなかったのでした。この指摘に対し、その場にいた日本人留学生全員の中に幸い天皇崇拝者はいませんでしたが、そのドイツ人の言葉が核心をついていたため誰も反論できませんでした。

私は王位を継承したのではない。私には守るべき原則がある。私は行動し、責任を負う人間だ。私が導き、私に力を与えてくれる人々に、私は自ら応じるのだ。

国民が私の味方なのは、私が彼らの必要としているものに本気で取り組んでおり、彼らの心の問題に関心を寄せていると分かっているからだ。だからこそ最も大きな味方は、国民の中にあり、私はかつての王族が国民に愛されたよりもはるかに愛されている。必要なのは、最大多数派の階級が自らの生活から湧き起こる感情を変えてやることだ。

『ヒトラーへのメディア取材記録 インタビュー1923-1940』(原書房)著:エリック・ブランカ、訳:松永りえ

ヒトラーは非戦闘員の命をできるだけ守ろうとした

日本では大東亜戦争中、非戦闘員の一般市民らは自分達で穴を掘ってその上に畳、土をかぶせるだけで耐えていました。戦争中に国は戦闘員に命を捧げることを要求しながら、非戦闘員の命の保証をしなかったのです。しかし、ナチスドイツでは違いました。例えば空襲警報が発令されるたびに、一般市民は絶対に安全なブンカーと呼ばれる建物に避難できました。このブンカーは1発で10トンもある超大型爆弾を直撃してもびくともしないものです。例えばゲッベルスは2万人を収容できるブンカーをベルリン全土に200作り、400万のベルリン市民を全員入れると言っていました。これはもちろんヒトラーの指示のもと行われました。ブンカーの中には何時間閉じこもっても大丈夫なように、内科や外科、産婦人科、眼科、歯科などあらゆる病院の施設がありました。このブンカーで命を救われたドイツ人も多いでしょうし、新しい命も誕生しました。このブンカーを、ドイツ降伏後に壊そうとしたイギリス軍が、それを爆破しようとしてもびくともせず、イギリス軍の指揮官は戦勝国の面子を傷つけられ、爆薬を2倍に増やしてなんとか爆破できたという話があります。また、観光客が壊さずに残されたブンカーの写真を撮って、ドイツ民主共和国(東ドイツ)では、ベルリンにも監獄があり、それがこのブンカーであるというデマを流したことには、ドイツ人も怒っていました。ともあれ、日本とドイツ、両者はまるで自国の非戦闘員の生命に対する考えが違ったのです。

ヒトラー総統のどこに魅力を感じますか?ナチスドイツ時代のアンケート

『ドイツにヒトラーがいたとき』(誠文堂新光社)の著者はナチスドイツ時代、度々ドイツ人に「ヒトラー総統のどこに魅力を感じますか?」というアンケートをしていました。大まかにまとめると以下の二つの回答に分けられ、それをここでも紹介します。

Q. ヒトラー総統のどこに魅力を感じますか?

A1. 非凡な精神力と行動力によって、第一次世界大戦の敗戦国ドイツを世界屈指の強国にした。

A2. 私利私欲がなくて、生活がきれいである。

1については最初に伝えたように、ドイツ人は誰もがヒトラーを認めていましたね。そして2はヒトラーの性格についてです。ヒトラーは公式イメージとして「禁欲主義の総統」「修道士のような生活」「無私・無欲の人」と大いに宣伝されました。実際ヒトラーは、タバコも吸わない、酒も飲まない、女遊びもしない、賭け事もしない、肉も食べませんでした。ヒトラーは派手なものではなく質素な生活を好んでいました。(ヒトラーは金持ちになっても棺桶にはお金は持っていけないと笑っています)またヒトラー自身、一度決めると最後まで自分の意思を貫き通す人でしたので、一度自分で決めたことは守り続けたのです。

ちなみに、ワイマールにあるヒトラーの定宿「ホテルエレファント」(現在もあります)を当時訪れ宿泊したことのある日本人はその宿がヒトラーの定宿にも関わらず、大都市の一流のホテルではなく、極めて庶民的だったことに驚いたと言います。また、宿泊客の中にゴム長靴、ジャンパーを着た客がいることも驚いていました。(話を聞くとこの客はナチス党員であり、その格好で出入りすることが許されていたのです)このような話もまた、ヒトラーらしく、またドイツ人に良い印象を与えました。ちなみに、ホテルの館内はヒトラーの命として禁煙で、今後母になる女性、また男性にも禁煙をお願いするメッセージカードが置いてありました。ヒトラーは国民の健康にも気遣っていたのです。

戦争とユダヤ人問題がなければヒトラーはドイツ最大の政治家だった?戦後ドイツのアンケート

もう一つ興味深いアンケートを紹介しましょう。『ヒトラーの遺言』(原書房)より、それは1989年ヒトラー100年生誕にあり、西ドイツ週刊誌『デア・シュピーゲル』は特集号として、ヒトラー、ナチスに対して様々なアンケート調査を行いその結果を同年4月10号に掲載したものです。なお、アンケートは西ドイツのいくつかの有力な世論調査機関に依頼したものであり、2,200人を対象としています。

Q1. 戦争とユダヤ人の殺戮がなかったら、ヒトラーをドイツ最大の政治家の一人と思うか?

A.
そう思う 38%
そう思わない 60%
どちらともない 2%

Q2. 第三帝国はどんな時代だったと思うか?

A.
悪い面しかなかった 16%
悪い面の方が多かった 38%
善い面も悪い面もあった 43%
善い面の方が多かった 3%

戦争とユダヤ人問題がなければ、約4割のドイツ人はヒトラーをドイツ最大の政治家だとし、ナチスドイツ時代は4割強のドイツ人が善かったと答えています。頭のてっぺんから足の爪先までナチというドイツ人は少数派ですが、あくまでも表面的であり、かくれナチ、潜在的ナチが意外にも多いのです。それはネオナチというスキンヘッド頭の偽物集団ではなく、国民社会主義、ナチズムを支持する人のことです。

ヒトラーは語る。全世界の反ユダヤ主義者よ、団結せよ

昔のドイツ人は分かっていました。ヒトラーがユダヤ人、キリスト教を敵にしなかったら、最も優れた政治家として歴史に名を残せたことを。しかし、それでもヒトラーはドイツ国民を守るために、そして間接的に全人類を守るためにユダヤ人と戦いました。ヒトラーが生涯のうちに泣いたのは愛する母親クララの死と1918年ドイツ敗戦の知らせを聞いた時だけです。ヒトラーは画家として生きたかった。(現に戦争が終った暁には総統を引退し画家として暮らしたいと語りました)しかし、彼は自分こそがドイツ民族、人類をユダヤ人の害毒から永久に守ろうとする世界における最初にして最後の救世主であると確信し、この闘争を続けたのでした。それは途中で投げ出すこともできましたし、普通の人はもういいやと、誰かがユダヤ人をやっつけてくれると他人任せにしてしまうでしょう。しかし、ヒトラーは決してそうしなかった。「この国を守ることが我々の最も重要な仕事だ」ヒトラーはこう言いました。ヒトラーがいなくなった後、全てを失ったのでしょうか?ヒトラーは数々の言葉を我々に残してきました。ヒトラーは我々人類が目覚め、反ユダヤ主義、反共産主義の精神を持ってこの闘争を続けることを望んでいます。すなわち、全世界の反ユダヤ主義者よ、団結せよ!と。

▼ヒトラーが闘ったもの▼

▼ナチズムとは?▼

ここまでお読みいただきありがとうございました。

白狼(はくおう)ちとせ🐺

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