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発達障害体験談(後半)

とりあえず、過去のことはこれでひとまず書き切ります。

ここ数日お金のことでだいぶ悩んでいたのが今少し落ち着いたのでまだやっぱり辛いので考察してみた。渦中から少し抜け出せたからかな。


※ちょっとした希死念慮(?)ありです。注意して読んでください。


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新卒時点で貯金は100万ほどあった。次の職場でデスクトップパソコンを購入するまでは貯金に手をつけなかったどころかむしろ毎月六万貯めていたくらいには貯金をしていた。


今思えば自分なりのストレスに対する戦いだったのかもしれない。


・自己投資すれば何か変わるのかもしれない。

・今思えば300から400万円を使うほどのストレスとそれに対する抵抗力があったのかもしれない・

・とにかく何か変えなければとずっと思っていた

・本当に誰かの役に立ちたいと思っていた

・一方で役に立てない自分を責めていた


新卒の頃はまだ泣く余裕があった。それくらいの抵抗力は残っていた。


当時は新卒の会社は実家の近くの鉄工所だった。何年かインターンでお世話になっていた会社だった。


しかし、何をやってもうまくいかず、指示はうまく聞き取れないし、工場もとてもうるさかったので疲労感が非常にあった。(鉄工場は夏場はとても暑いし、粉塵もひどかった。)


何より、人によって基準もバラバラで仕事していたし、もっと早くとせかせれていて自分の中では丁寧にしていたほうがあっていたのだけれども、会社はそれはできなかった。


本当は検査の仕事をする予定だったのだが、コロナ禍で仕事が当時から安定しない状況だった。

実習内容とは全く違う仕事をすることになっていたのだが、その仕事は本当はもっと丁寧にしても良かったのではないのかと今になって思う。(当時は玉掛けクレーンを使う商品の出荷作業をしていた。)



結局、障害者手帳の所持が会社に知れ渡って、当時の社長が障害者雇用の方針で仕事を探してくれていたのだが、結局目処が立たず、社長のお願いで自己都合の体で会社をほぼクビになった。(これに関しては自分はその会社にあまり恨みを感じていない、本当に優しくしてくれたし、社長の判断にはむしろ感謝しているくらい)


当時から理由もなく焦っていたのだろう・・・新卒を数ヶ月で辞めざるを得なかったことに対してなら・・・コロナ禍の中なら早く次の仕事を探さねばと思うのも当然だった・・・


このままだと社会の迷惑になる、家族の迷惑になる、私がいてはいけなくなる・・・・・・・


物心ついた時から自分の存在を証明するために必死だったのだろう・・・・自分が傷つく形で・・・


結局、半ばパニック状態の中職を見つけて就職した。自動車関連の工場であった。学生の時から関わりのある会社だったので、ここならなんとかなるかもしれないと希望を持っていた・・・・

最初は工場の清掃の仕事だったが、当時から強迫神経症の症状がひどく、2021年の初めからそれを抑えるセルシン(パロキセチンだったか・・・)を服用していた。


当然仕事にも支障が出てしまっていた。仕事中にうずくまることもたくさんあったし、上司に車で人を轢いてしまったのではないかと不安になって相談していて、評価も下がるし、自分も傷つくこともたくさんあった。


一時的に部品の検査の仕事に切り替えてもらって良くなる希望もあったのだが、会社も焦っていたのだろう。どうすればいいか本当にわからないだけだったのかもしれないし、ただ単に制度を使って会社のいいように働かせたいだけだったのかもしれない。それは聞いてみなければわからないが・・・


~もし同じ障害者雇用で悩まれている管理職の方がこの記事を見られていたならば、彼らを助けてあげてください。くれぐれも我々の時間はゼロじゃないのです。猶予は我々が思っている以上にたくさんあるのです。すぐに解決するような話じゃないんです。甘えと思われても仕方ないのかもしれないのですが、我々は常に真剣に生きているのです。きっとあなたの元にいる彼らは一生懸命働いているはずです。我々は社会の一員でありたいと希望しているのです。ただ、困難を伴うだけなのです。決して怠けてないのです。それでも、助けてくれてありがとうございます。このような決断を下してくれてありがとうと言いたいです~


とにかく、どんどん上司の態度が冷たくなっていくのを感じていた。他の周りの人は一見よくしてくれていたと思う。(多分彼らは本当によくしてくれていたのだろう・・・)しかし、当時はトライアル雇用と委託訓練の併用で、とにかく自分も会社も急かされていたのだろう。それがどんどんプレッシャーになっていたし、最終的には長すぎる通勤時間と聴覚過敏、後は油焼けなどの体調不良で退職することになった・・・  


辞める時も親父からひどく叱責されて本当は辛かった・・・でも限界だったんだよ・・・


親父も余計なことを言ってしまうとは言ってるが・・・正直治らないなと思ってる。


これは以前の会社や学校、両親からも頻繁に言われていたことなのだが・・・・


このままでは社会人としてやっていけないよ


社会人として君はダメだよ(あくまでじぶんの意訳だが・・・)


社会に出てから頻繁に言われていた気がしている。周りは本当にしっかりした人ばっかりだったんだ・・・だからすべて自分が悪いとばかり思っていたんだ・・・それはのちに入る以前の就労移行支援でも同じとが起こるのだが・・・・


そんなつもりは全くなかったし、むしろどの会社でも会社に尽くしたいと思っていた。確かに副業もしたいし趣味も充実させたいとも思っていたし、その澱みが彼らにとっては不満だったのかもしれない。それでも仕事の手を抜こうと思ったことはやっぱり考えられなかったし、どうしても高圧的に言われてしまうとフリーズしてしまうこともやっぱりある。それはいまだにそうだ。


でも、


それでも社会の一員で何とかいたかった・・・・


それは発達障害ともいえども同じ気持ちになったことがあるのではないのか・・・・


怠けていたり社会人として不適切に見えるかもしれないけれども、本当は違うんだ・・・


話は前後するが、ちょうど卒業と新卒の前後半年のこの時期にコロナが日本に上陸してきて、学生の時の自分も思えばかなり不安が出てきたように思える。コロナが上陸したのが確か高専課程の2年目の始めだった・・・


学生の当時は自己啓発に傾倒していた。薄々自分の将来に不安を感じていたのかもしれない。やっぱり自分はこのままじゃいけない、いまだに保健室に通わなければ授業もやっていけないし、就職もうまくできない・・・・両親は基本的に常にお金がないと言っていた。そのため結構口うるさいほどに貯金の方法や将来を考えなさいよといっていた・・・(そのくせに投資信託には反対していたのだが・・・解せぬ)特に父親は周りはすべて敵だ的な事をよくいまだに言っている。(大体両親がお金について話すのは誰かが騙されたとか詐欺の話とか・・・特に相手を疑いなさいよ的な話が多かった)自分の中でそれが反抗心としてアルバイトを始めてお金を持ち出してからそれが出てきたように思う。


最初は絵を描くために、成功するためにipad proを買っていたと思う。そこから自分のパソコンや本当にカフェ代に当時のアルバイト代はほとんど消えていった・・・その上、アルバイトも一社辞めている。スーパーのレジ打ちは本当に合わなかった。キャンプ場のアルバイトは比較的続いていたのだが、それでもかなり辛かった・・・



思えばいつも貯金ギリギリだった。どこかで自分ならなんとかなると思っていた…

自分も同じ状況の方も責めるわけではなくて、むしろ自分でなんとかせんと悪戦苦闘しているのだろう…やっぱり辛いと思うから…自分に優しくしてあげてほしい。そして周りの助けを借りてほしい。


発達障害は自分も周りも思っている以上に大変だと思う。本当に苦しいと思う。一人の努力で解決することなどはっきり言ってあり得ない。今まで自己分析や自己啓発を自分なりにやってきた私でもそれだけではダメだった…


発達障害の治療はチームプレイだ。患者本人だけでも関係者だけでも不十分だと思う。


実際本人は周りが思っている以上に苦労している人が多い上にそれがなかなか理解されない事が多く、自分もついつい助けを求める事を[甘え]と感じてしまい助けを求める事が遅れてしまう。


これが今の自分の状況だと思う。


だからこそ、一人で抱え込まずいろんな人の助けを求める事がひいては自分自身の社会貢献に役立つはずだ。


これは発達障害を持っている方に限らずさまざまなことで悩んでいる定型の方々にも言えることなのではないか?


みんな誰の力も借りず苦しんでいる…


お互い助け合う事を思い出す事が今の生きづらくて苦しい世の中には必要な事ではないのか?



この話を誰かが聞いたらどう思うだろうか・・・


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ちょうどお金をほぼ使い切ってしまったときに体調が限界を迎えたのが最近だ。


動悸が一日中とまらなかったし今でも少し発熱がある。(今思えばサウナのやりすぎとそれに伴う花粉症の悪化もあるのかもしれないが)


3月13日のことだ。


早朝目が覚めて急に貯金のことに対して不安がはじまった。直感でやらかしてしまったと思ったのだろう。(自分は調子が悪くなると問題を過剰に大きく感じてしまう節があるのだが)


そこからパニックになったのちに動悸が止まらなくなり、その日の夕方は発熱もあった。


結局親と相談して足りない分は借りることにした。内科にも行ったがコロナやインフルではなかった。


結局その日は精神科にも行けず、寝ることとなる。次の日にも発熱は治らなかった・・・・(就労移行には行ったのだが)


その日は訪問看護師が来る日だったので話をした。

(以下の話は友達と話して気づいた内容、および書いているうちに気づいた内容もたくさん含みます、そうしないと全体像が掴めないので悪しからず)


希死念慮(?)あり、注意してください。


 みんなやっぱり生きてほしい。みんな頑張っているから。みんな生きてほしいよ・・・・何にもならなくたって、ここにいてほしいんだ・・・











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自分としてはいつも何か不足していて、発達障害だからここにいてはいけなくて、発達障害だから人よりも遥かに努力しなければいけないし、お金を使わないと普通になれない、幼稚園から今までズーーーーーっと戦ってきたんだ、誰の助けも借りられずに。みんなは助けられないし、助けを求めることは甘えだと思ってきた。当然だもん、僕は悪者だから。それでも生きるために、やっぱりここに自分自身がいて欲しかったから・・・・だからこそ、ずっと一人で戦ってきたんだと・・・ずっとできない自分を責めてきた。それがずっと悪循環として今まで続いてきたんだ。


(補足として自分は刺激に繊細な上にそれを癒すためにさらに強い刺激を求める、いわゆる「HSS型HSP」だと友達との話と自己分析で最近わかってきた)


その度に自分でたくさん傷ついてきて、それも自分でなんとかしなければいけなくて、それを癒すために、乗り越えるために高校生の時から刺激物に手を出してきた。(今思えば小学校の時の紅茶や中学校の時のコンサータも刺激物のひとつだったのかもしれない)


高校の時からいつも貯金はギリギリで、周りから見ると平気に見えていたのかもしれない。当時からコーヒーでお腹をよく壊していた。(当時も眠気が非常にひどかったので、コーヒーに頼らざるを得なかった)電車通勤も非常に苦痛だった。寒暖差も激しいし、何よりモーター音が非常にうるさかったので・・・聴覚過敏を持っている自分にとってはイヤホンもなかったので苦痛だった。


なけなしのお金で買ったソニーのノイズキャンセルイヤホンがその分とても救いになっていた。少なくとも高校2年から高専の2年間の通学はこれのおかげで凌げたと言っても過言ではないくらいには救いだった。


お金を使ってものを買って苦痛を和らげる、これも今思うとストレスコーピングだったのだろう。これが今でもストレスコーピングになっていたことには違いない。


(ちなみにストレスコーピングという言葉を知ったのは「心療内科医が教える本当の休み方」(鈴木裕介 著)という約半年前に買った本だった)


累計400万を使うくらい自分にとっては今までの苦痛は計り知れなかったし、それを乗り越えられるほどの強さ、力は間違いなくあった・・・・それは純粋に褒めてあげたい。常に自分は何かを変えなければとずっと戦ってきた。それも間違いない。


やっぱりそれでもなぜ管理できなかったのかと責める自分や心配ゆえに指摘する両親や周りの人間も確かにいて、それは仕方のないことだし、それでも辛いことだ・・・やっぱりこういう事情を理解されないことが僕は一番お金を失うことよりも怖かったのかもしれないな・・


・・・・・後は・・・・常に隣にいる苦痛「竜災害」を乗り越えるために何かに夢中になる必要があったのかもしれない。少なくとも、バドミントンやパソコン、ソフトテニス、イラスト、文章、美味しいもの、Youtubeなど何か夢中になる物のためにお金をたくさん使っていたように思う。その間だけは夢中になっている間は希望が持てた、わかっている、それはあまり良くない方法だったのかもしれない。でも自分が生きるために、希望を失わないようにするためにそうでもしないとやっていけなかった・・・怒らないでくれ・・・自分なりの戦いだったんだ。


(ちょっと髭を剃ると楽になる、剃ろう)


「誰かの役に立てないのなら僕はいらない、いい子になれないのなら自分はいらない、普通の社会人として生きていけないのなら自分は社会に要らない、死ぬべきなんだ・・・・」←これはまだ話していない。自分も気づかないうちに過労やお金を使って自殺しようとしていたのかもしれない。心の叫びに気づくことができてよかった・・・本当に怖かった。本当に生きたい。


話は逸れるが、理由もなく死にたいと叫んでベットから飛び降りようとして両親と口論になった事が小5か6の時にあった。また、この時期に政治について真剣に考えていたり、[自分にもっと苦難を!]と天を仰いだこともあった…正直、その時は本当に死ねばいいじゃないかと親から言われた記憶もある。


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 はっきり言ってさ、親本人が今まで言ってきたことを反省しても俺の傷は癒えないままなんだよ。それが実はやっぱり許せないんだし、敵に思えても安心できなくても当然じゃない?多分、今は許せないんじゃないかな・・・正直。これを書くのはとても怖いけど・・・恨んでも仕方ないのはわかっているからさ、別に幸福になって欲しいとは思うし、その話とは別問題だからさ。でも、これを書くことで両親に祟りが来るんじゃないかってやっぱり不安になってしまう。


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上記のことはやっぱりメンタルが病んでくるとどうしてもそう思ってしまうのは僕だけだろうか?親にも価値観はあると思うけど、そう思ってしまう自分をどうか責めないでやって欲しい・・・・


自分自身でもお金を使う事で人とのつながりをなんとか保とうとしていたのかもしれない。


ずっと与え続けてきたのかもしれないな…


ご飯だって、美味しかったって言って喜んでもらえる自分に存在意義を感じていた。ラケットだって、スポーツが楽しかった、いつも助かっていますっていう時が一番幸せだった。


こんな自分のお金を使う事で誰かが喜んでくれるなら…


自分はどうなっても構わない…


ずっと本当は社会の一員として役に立ちたかった。そうでもしないと僕が僕でいられない、いてはいけない気がしていたんだ。社会から置いていかれる気がして。


だから背伸びしてでも社会の役にどうにかして立ちたかったからたくさんお金を使って誰かを助けたかった。成功していろんな人の希望になりたかった。


もちろん、自分がチヤホヤされたかったのもものすごくある。そうでもしないと喜んでもらえなかったから。


いつも誰かを悲しませていた罰金でもあった…


そうでもしないと


じゃないと僕がわざわざ発達障害として生まれた意味がなかったような気がして…


ずっと生まれた時から物心ついた時から何か成さなければ行けないって思ってた…でもできないから自分を責めてここまできてしまった。


だから、今執筆できている事が実は救いになっている。


今の就労移行に通って一年になるが以前からなんとなく症状はあった。


2022年の会社を辞めた6月あたりから貯金も使い込むようになった・・・


その時にはすぐに最初の就労移行支援に入ったのだが、そこも辛くて数ヶ月ほどで辞めていた・・・


2023年に入ってからよく熱を出すようにもなったし、コロナなどの体調不良にも頻繁にかかるようになった。それに伴ってこの時期からたくさんお金が出ていくようになった。よく吐くようにもなった・・・・


一応、10月に障害者年金の訴求請求も入ったのだが、驚くことに半年ほどで全て使い切ってしまったのだ・・・・



今になってこの記事と以前の記事を投稿して良かったのか・・・・少し不安になっている。


少し考えさせてくれ、誰かの役に立つのかもしれないし、いろんな人に相談させて欲しい。


体験談はひとまずここまで、また何か思うことがあれば書きます。

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