足跡のない道/連載エッセイ vol.47
※初出:知事認可・岩手県カイロプラクティック協同組合発行、「ほねっこくらぶ通信 vol.49(2008年12月)」掲載(原文ママ)。
人間には『五感』が存在する。
辞書によれば、『外界の刺激を感じる事が出来る五種の感覚』の事であり、具体的には『視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚』となる。
勿論どの感覚も生きていくには不可欠な要素であり、我々は文字通り『五感をフル活用して』日々を暮らしている。
しかしながら、この外界に向けられた『5つのアンテナ』には、一人の人間の中でさえ、その情報入力処理能力にバラつきがあり、その能力の長短がその人固有の『感受性』を形成し、当人の『趣味嗜好』を生み出す。
だから、普段つい食べ過ぎてしまう方はこう言い訳して頂きたい。
『私は「味覚」の感受性が豊かなだけだ』と…。
さて、斯く言う私の『感受性』を形成するのに幅を利かせている感覚は、ズバリ『聴覚』である。
昔から人前で話をする機会が多い為、自分でも歳をとるまで気が付かなかったが、実は『話す』より『聴く』方が好きらしい。
毎晩、半身浴しながらCDを楽しんだり、時々、思い立った様にギターで曲作りをしたり、ごく稀に、女性の話にじっくり耳を傾けたりと、『聴覚』を主体に働かせている時が私のリラックスタイムなのである。
(最後の例に限っては、別に『聴覚』関係ないか…!!)
そんな『耳人間』の私が、自分自身へのご褒美として、先日あるコンサートへ行ってきた時の話。
私のクリニックには、来た事がある方ならお判りかと思うが、実に色々な国の音楽が流れている。
俗に言う『ワールドミュージック(民族音楽、もしくはそれを現代的にアレンジした音楽)』が好きなのだが、その出発点が、その夜のコンサートの『主』の発信する音楽であった。
彼は、今や懐かしい『原宿のホコ天(「歩行者天国」の事ね…)ライブ』出身であるものの、その後、沖縄音楽に傾倒し、それから東南アジア、中米、そして南米の音楽を辿り、受け入れ、独自の音楽世界を作り出している。
今や世界的なヒット曲を持ち、2つのバンドを掛け持ちして活動する彼が、スケジュールの合間を縫って、たった独りのギター弾き語りで全国の小さなステージを旅するツアーが、スタートして数年経ち、やっと岩手にやってきたのだった。
余談であるが、そのチケットの発売日、私は丁度、県内某公立中学校での講演会の予定が入っており、予約を人に頼む事も出来ず、半ば入手を諦めていたのだが、ダメ元で講演終了後にコンビニへ駆け込んで、発売2時間半後のチケットを検索した所…あっさり取れてしまった。
念願のコンサートに行ける喜び半面、我が郷土の『アンテナ』の鈍さに微妙な感情を抱いたのは言うまでもない…。
さてコンサート当日、パイプオルガンをバックに歌い上げるステージは流石に圧巻で(この時点で地元の方なら会場がドコかお判りのハズ!?)、ハイライトは今年の『日本ブラジル移民百周年/日本ブラジル交流年』を記念して作られた曲の場面であった。
その曲を歌う前に、彼は制作秘話を語る。
『交流年を記念する曲を書こう!!』、そう決めたものの、その百年という膨大な歴史の渦を前になかなか曲作りの糸口が見出せなかった3年前、ブラジルに渡った彼は一人の女性と出会う。
中川トミさん、当時99歳。
1908年、ブラジルに向けた第1回移民船『笹戸丸』に乗って海を渡った最後の生存者である。
彼はトミさんから、移民の生の歴史を聞く。
政府に煽られ一攫千金を狙って日本を旅立った多くの移民達。
現地ブラジルでの、奴隷貿易が禁止された後の単なる『穴埋め労働力』としての扱い。
働いても働いても地主への借金が増える毎日。
大戦中の謂れなき差別。
やがて二度と祖国の地を踏む事が出来ないと悟った時の絶望。
それでも彼の地に根を張り、今や2世3世と、世界最大140万人の日系社会を作り上げるに至った大河の様な歴史の潮流…。
その話にインスピレーションを得た彼は、一人の女性の生涯を辿る観点で、移民達の歩み進んだ『足跡のない道』を振り返り、曲を書きあげたのだった。
その制作秘話と曲を聴いた時点で、感受性の強い聴覚は既にリミッターが振り切れ、涙腺の堰を切ろうと理性と押し問答していたのであるが、残念ながら訪問から1年後に100歳で亡くなられたトミさんへの追悼詩を続けて朗読された日にゃ、残念ながら理性は脆くも力尽き、思わず嗚咽を漏らしてしまう自分がいたのだった…。
(しかし当然その姿は精神衛生上よろしくないと思われるので、想像しないで頂きたい…だって…30過ぎの大男が…暗闇で…嗚咽ですよぅ…。)
その後もコンサートは盛り上がり、予定より大幅に延長して閉演となった後、夜風に吹かれながらビルの谷間を駅まで歩く私の脳裏に、トミさんが二言目には口にしたという、ある言葉が焼き付いているのに気が付いた。
『わたしはよぅ働きました…わたしはよぅ働きました…』
私は考える。
自分が死ぬ時に、この言葉をそんな風に口に出来るだろうかと。
トミさん達が身を粉にして働いて、百年という歳月をかけて遠い異国の地に生きた証を刻んだ様に、自分もこの世の中に何かを残せるのだろうかと。
百年後の人達は、きっと私の事を知らない。
それは当たり前の話だ。
でも百年後の岩手や陸奥に住む人達が、今よりもっと手軽に身近にホンモノのカイロプラクティックを享受できる環境にいられるとするなら、今この瞬間、もがきながら前に進もうとしている事は無駄じゃないのかな…
そう考えながら、しかしあまり感傷的になり過ぎない様に、『味覚』の感受性を高めようと肉まんをパクつきながらキーボードを叩く明け方なのであった。
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