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生命の科学アーユルヴェーダと「自然を観る」という事。自分の体のエビデンスは自分で取るという考え方

生命っていうのは
常に揺らいでいるものらしい

だからその揺らいでいる一瞬を捉えても
それは一瞬の事だったり
その時だけのものだから
次の瞬間や時間の変化で違うものになっている

その揺らいで揺らいで
落ち着くバランスの所が
その物にとっての軸みたいな所

「動的平衡」を保っているのが生命だという

その軸にずっと止まっているなんて事はなくて、常に揺らいでいる

どうやらそれが生きてるって事らしい

だからその揺らいでいる点の平均値をとってもしょうがない

沢山の人の標準値を当てにしてもしょうがない

人それぞれのバランスの場所があるから


自分に聞くしかない

一つ大事なのは
自分の体の感覚を研ぎ澄ませる
って事だと考えてます

その感覚が曖昧って思ってる人は
ずっとそこの安定する
心地いいバランスの所に気づけないって事になる


概念化できない真実ってのが
ホントはそういう所にあると思う


でも何らかのデータがないと
自分の感覚すらあやふやなのが
現代人


体が弱ってたら葉っぱを食べる雑食の動物は
葉っぱを食べるといいよと誰かに教わったわけではない


体の声を聞いてるんだろう


それを知るって事だと思う


「感覚」って大事だけど
それそれ!その感覚!
って人に教えられない

データとかでも、他の人の事例をパターン化したものだと当てはまらなかったり
分からない事がある

その答えは全部自分の体にあるから

人の健康の平均値をとっても
あまり意味がない

一人一人の体は複雑で
そんな単純に出来てないから


あくまでもそれは指標ですよね


じゃあどうすればいいか?


それを学ぶには「自然」を観るしかない

そこに全部答えとかヒントがある

感覚に頼れないとしたら
大事になってくるのは自分という「自然」を良く観察するって事だと思う


自然は一つとして同じものがない

そして今この瞬間瞬間のエネルギーを
繋いで生きている


人もそういう自然だって事に気づく


それを「生命の科学」として体系化したのがアーユルヴェーダだと思う


複雑で捉えきれない自然を
概念的に捉えきれない事象を
サイエンスしている

それは本当のサイエンスのあり方の様な気がする


根源的なものがそこにはあるはずなんだけど、なぜか軽視されてるような気がして
僕はそれに納得がいかなくて、
わざわざそこの重要さを
こうやってうだうだと訴えているのだ(笑)


分からない人には分からないから
いい加減やめようと思うのに
何で説明したくなるんだろう?

自分が思う事を正当化したい訳じゃなくて、
そこにある生命の真実みたいなものに
皆で気づいていき分かち合いたいって気持ちがずっとある


答えを自分で出せなきゃいけない事象があって

答え合わせをしなきゃ
これだろうって思えないっていうのは
ルールと事実だけを覚えて、
それを適用して問題に当たるって事が当たり前と思ってる「思考」にある


エビデンスが取れてるから正解
って思うのは当然誰でもあるし
信頼出来る指標だとは思う


だったら自分の体のエビデンスは
自分で取ればいいんじゃないかな?


自分の心と体が一致してくると
きっと色々なものが見えてくるようになると感じています

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普段美容師をしたりアーユルヴェーダのカウンセリングをしたり、オパというセラピーをしたりしてます「スウ」です♪

このnoteではお店のブログにも載せるのも憚れるような、恥ずかしい詩とかエッセイみたいなのを書いてみたり、今学んでいるアーユルヴェーダから健康の事、体の事、心の事など書いていきたいです。

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どうぞよろしくお願いします♪

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