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【甲陽軍鑑】合戦関係

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甲陽軍鑑の合戦関係についての記事
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【甲陽軍鑑】信州・大門峠合戦

【甲陽軍鑑】信州・大門峠合戦

甲陽軍鑑品第二十三に書かれた大門峠合戦を紹介します。

天文十一年(1542年)の8月と9月は、侍たちにとって貴重な休息期間でした。10月に入ると、信玄公が出陣し、大門峠の合戦に備えました。

合戦の準備が進む中、甘利備前や飯富兵部の傷も癒え、諏訪郡の城には逸見殿、南部殿、沼殿、栗原殿、日向大和守らが配置されました。また、信虎公の時代に処罰された侍たちの領地の見直しや、信虎公の財産の整理も行われま

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【甲陽軍鑑】甲信国境・瀬沢合戦

【甲陽軍鑑】甲信国境・瀬沢合戦

甲陽軍鑑品第二十ニに書かれている合戦について紹介します。

瀬沢合戦天文11年(1542年)2月中旬、信濃国の大名たちは、甲州の武田晴信公に対抗するために緊急の会議を開きました。集まったのは、小笠原長時、諏訪頼重、村上義清、木曽義康の各大名です。彼らは、武田晴信公の勢力拡大に対抗するための協議を行い、その結果、甲府に出陣することになりました。

家臣たちからの提案信濃勢侵略対策のため甲府には武田家

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【甲陽軍鑑】甲州・小荒間合戦

【甲陽軍鑑】甲州・小荒間合戦


甲陽軍鑑品第二十一に書かれた合戦を紹介します
天文9年(1540年)、信濃国の村上義清は、甲斐国への侵攻を決意し、清野、高梨、井上、隅田ら4人の武将を先頭に、2,500余りの兵を率いて甲斐国小荒間に進軍しました。

小荒間は甲斐国への入り口として重要な地点でした。
2月18日、村上方の軍勢は小荒間周辺を焼き払いましたが、当時はまだ雪が深く、他国から来た軍勢は思うように動けませんでした。

武田晴

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【甲陽軍鑑】甲州・韮崎合戦

【甲陽軍鑑】甲州・韮崎合戦

甲陽軍鑑品第十八に書かれた戦いを紹介します。甲州・韮崎合戦は、1538年(天文7年)に、信州の諏訪頼茂と小笠原長時が、甲斐国の内紛に乗じて侵攻した戦いです。この内紛の背景には、甲斐国を治めていた武田信虎と、その長男・晴信(後の武田信玄)の対立がありました。信虎は次男を後継者にしようとしたため、晴信との親子仲が悪化し、最終的に晴信が今川義元の助力を得て父を駿河に追放しました。この状況を知った諏訪頼茂

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【甲陽軍鑑】信州・海尻合戦

【甲陽軍鑑】信州・海尻合戦

甲陽軍鑑品第二十に書かれた戦いを紹介します。信州海尻の合戦

天文9年(1539年)の正月晴信の重臣である板垣信形の巧妙な策略により、信州海尻の侍たちを説得し、晴信の陣営へと引き入れることに成功します。これにより、海尻の城は無血で開城され、晴信に献上されました。

海尻の本城の守備は、日向大和守が二の丸、長坂左衛門と三の丸を担当しました。

本丸の守備は板垣信形、飯富兵部、甘利備前守、小山田備中の

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