大学院での友達Mー強迫、双極症ー 闘病記 【17】
大学院進学
山あり谷ありだった大学生活を終えて私は大学院に進学しました。大学院でもたくさん出会いと別れがありました。
その中で、今でも忘れられない思い出がたくさんある大学院での友達について述べたいと思います。
同じ日本史専修だったMという男です。Mは他大学から入学してきました。一見気難しそうな雰囲気で、人と距離を取るタイプに見えました。
なんとなくとっつきにくい感じがしたMは最初のゼミからおかしな行動をしていました。ゼミの最中に何度もトイレに行くのです。また人の話を聞いて座っているだけなのですが言動がおかしく、挙動不審でした。発言する時もどこかぎこちなく、おかしな感じがしました。
Mと日本史
そんな珍デビューを果たしたMは大学の時からずっと日本史を勉強していたようで博識でした。コツコツと努力してきたのでしょう。
また日本史が大好きだということもすぐに分かりました。自分が博識なことを自認していたと思います。
ところがゼミの時間になると緊張してトイレばかりに行き、発言するときもたどたどしく、どこかとんちんかんなことを言っていました。明らかに緊張し過ぎでしたし、周囲の反応を気にし過ぎでした。私にもそういう面があるのでどこか似たタイプかなと思いました。
精神的な問題
ところがMは明らかに「普通」ではありませんでした。大学の健康診断でMは心理テストで引っかかっていました。精神的にどこかおかしいと出ていたのです。
ところがMは再検査をかたくなに拒否していました。ちょっと変わったところがあるという程度で済まない病的なおかしさを持っていたのです。
私はMとほとんど同じ授業を受けていたので、自然と仲良くなりました。Mは太宰治の『人間失格』は自分のことを書いているようで、心を打たれたと言っていました。気が弱くて人を恐れながら道化を演じるところに自分との共通点を感じていたようです。
またMは人の目はすごく気にするのですが、人の気持ちを理解できてない部分がありました。他人に気を遣うのですがどこか考えすぎで、ピントがずれていました。
他人とのコミュニケーションに問題があり、今で言う発達障害のグレーゾーンだと思いました。
深夜になるとおかしくなるM
ただ日本史に対する姿勢は目を見張るものがありました。たくさん本を読みますし、朝早く来て夜遅くまで研究していました。私もそれにつられて遅くまで研究していることもしばしばありました。
ところが夜遅くなるとMはおかしなことを言い出してくるのです。急に塞ぎ込んで死にたいと言い出したり、反対に調子がよくなって歌い出したりしていました。
躁うつではないですがテンションの上がり下がりが激しくおかしな奴でした。
私のゼミ発表
そうこうしている内に私のゼミでの発表がありました。学部生の時から引き続いた内容を発表しました。うまくいって先生から褒められました。するとゼミが終わるとMは走って教室から出て行きました。
何かあったのかと思って探しに行きました。すると一人で泣いているのです。訳を聞くと私の発表があまりにも出来が良すぎたからだと言いました。
私にはわけがわかりませんでした。いろいろ話を聞くと、私がいるのなら学校をやめると言うのです。Mは私に研究で負けたと思ったのでした。そしてMは私の才能に対して嫉妬していたのです。しかし大人としては行動が異常でした。
逆のこともありました。自分の発表がうまくいったときには有頂天になっていました。喜びがあふれて、知らない人にまでおかしを配っていました。
以上のような行動からも、気分の浮き沈みが激しく、精神的に問題を抱えていることは誰の目にも明らかでした。
孤立するM
そんなおかしな言動が多かったので、徐々に周囲とうまくやれなくなってきました。私はかわいそうだと思いました。
また、自分も精神的な病を持っているので仲良くして支えてあげなきゃいけないと思いました。また友達が少なかった私にとっては数少ない心を許せる相手でもあったのです。
研究室に2人でいる時間もたくさんありました。また深夜に電話してくることもありました。研究がうまくいかないこと、周囲とうまくやれないこと、好きな人がいるということ、家族との関係に問題を抱えていること。いろいろ話をしました。
その時Mが心を許せる相手は私しかいませんでした。私は必死に話を聞き、元気づけていました。
本当に死んでしまうのではないかと思うこともありました。私はすごく心配をしましたし、時には宥めたりしていました。私はMの言動に翻弄されていました。その時はまだなんとか乗り切っていました。
私を賞賛するM
私はなぜそこまでMに対して面倒をみたのでしょうか。それは決して私が優しいからではありません。
その理由は、私にとって数少ない友達であることと、Mが私に羨望のまなざしを向けていたからでした。ゼミでは先生から褒められて一目置かれていること、夜の遊びをしていること、彼女がいることなどを例にあげてうらやましいと言っていました。
特に私のことを研究においては「天才」だと言っていました。私は純粋に褒められることがうれしかったのです。Mに賞賛されることが心地よかったのです。
ストレスに感じ始める私
しかしMの異常行動と私に助けを求める機会はどんどん増えていきました。私はそれが非常にストレスになってきました。もう相手をしない方がいいのではないかとも思いました。
カウンセラーにMとの付き合い方を相談することもありました。それでも私はMの相手をし続けました。
私には自分を買いかぶっている部分があったのです。自分ならMをなんとか出来ると思っていたのです。いやMを助けられるのは自分しかいないと思い込んでいました。それが自分の精神的な負担になっていることは言い出せませんでした。
その背景にはかつて友達を裏切った後悔や、女性を幸せに出来ずに別れを繰り返してきた過去があったのです。
今まで人のために尽くせなかったことの後ろめたさから、簡単に見捨てることができなかったのです。
Mとの距離
そういうこともあり私はMの話を聞き続けました。Mは私が何を言っても精神的に落ち着くことはありませんでした。
それも一つの原因となり、私の双極症、強迫症はどんどん悪化していきました。今になって思うと自己防衛のためにMに対して適切な距離を取った方がよかったのかもしれないとも思います。
大学院退学後
そして私が病気のために大学院を中退した後も関係は続きました。突然連絡してきて「早く大学院に戻ってきてくれ」と必死に説得してくることが何度もありました。
私は自分が生きることで精一杯でしたが、Mに話を合わせていました。
私が大学院をやめて何年かした後に会うことがありました。
その時Mは私に歴史学者をやらないならルポライターになった方がいいとすすめてきました。紆余曲折がありあましたが、折に触れてMは研究や書くことに関しては私を「天才」だと言い続けていました。
病魔に冒されている時もMから「天才」だと言われることはうれしかったです。一人で外にも出られないようなみじめな生活をしている私に対して評価をしてくれる人がいるというのは大きな心の支えでした。
それからもたまに連絡をとる間柄が続きました。Mは30歳を超えて、順調に出世して大学で講師をしていました。Mは私が病気で苦しんでいることをよそに研究者として順風満帆に進んでいるように見えました。
Mの自殺
しかし、私が34歳のときMは突然自殺してしまいました。私も大学院から離れて長いですし、個人的に結婚したことなどもあり疎遠にはなっていましたが、すごくショックを受けました。
私がMの話を聞き続けなかったからMは自殺してしまったのだと思いました。私がそばにいればMは生き続けたのではないかという自責の念に苛まれました。
そしてMがいなくなった今、私を「天才」と呼んでくれる人はいなくなりました。私の才能を認めてくれる人はいなくなったのです。あの「天才」だった私の過去はMと一緒に死んでしまったのです。
私は中々現実が受け入れられず、Mの墓参りには行けませんでした。昨年僧侶となって初めてMの墓参りに行きました。私はただお疲れ様でしたと声をかけました。大変な人生だったと思います。私にはどうすることもできなかったことを悔いています。Mにずっと書くことを促されたことが機縁となって、今体験記を書いています。
Mに聞きたいです。私はまだ「天才」ですかと。
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