凋落ー強迫、双極症ー闘病記【22】
内観療法から帰って
前回は内観療法について述べました。今回は大学院生活が崩れて実家に帰るまでを述べたいと思います。
内観療法から帰ってきてしばらくすると、うつ状態になることが増えてきました。一週間の内に3日は寝込むようになりました。学校に行けるのは週に3日ぐらいになりました。
研究は続けていたのですがもう以前のようには集中できなくなっていました。
それでも学校へ行ける日は授業を受け、研究を進めていました。
前にも述べたように加減をするということを知りませんでした。学校へ行く日は丸一日授業や研究に時間を費やしました。
一方休む日は丸一日何もしませんでした。出来る日と出来ない日がはっきりしていました。悪いなりに休み休みすればよかったと思います。
そんな感じだったのでカウンセラーは休養を提案しました。一度実家に帰ってゆっくりしたらどうかと言いました。
医者もしばらく実家に帰ることを勧めました。
焦り
しかし私は帰れませんでした。今帰ったら研究が滞ると思ったからです。早く実績を出したいという焦りがとても強かったのです。
そして研究を少しまとめたものを雑誌に掲載してもらいました。
おそらく担当教官が少しでも自信を付けてもらおうと雑誌の編集者に手を回したのだと思います。
アシスタントを任される
そして時は経ち大学院2年の秋、授業のアシスタントを任されることになりました。教官から期待されていることがうれしかったので非常に張り切っていました。
そして授業の準備をしたのですが、テキストである論文が読めません。一切頭に入らないのです。これはおかしいと思いました。頭がおかしくなったのではないかと思いました。
こんな経験は初めてでした。
すごくショックを受けて寝込んでしまいました。そのいきさつを告げると教官も心配してくれました。
そしてアシスタントには代役を立ててもらいました。
帰省
この一連のことをカウンセラーに言うと、やはり一回実家に帰った方がいいと言われました。
医者に相談しても帰省することを勧められました。私は二人の勧めに従って実家に帰ることにしました。帰りの電車では涙を流しました。
さて実家に帰ってみるとすぐに元気になりました。気分転換が出来たのです。病気がよくなったのだと思いました。一週間くらい経っても不調になりません。
そこでまた大学に戻ることにしました。親からは無理をしないように言われましたが、私はゆっくりと研究をすると言って家を出ました。
悪循環
しかし大学に戻ってしばらくするとまたうつ状態になりました。全然治ってなどいなかったのです。それでも研究を続けようという意志は変わりませんでした。
相変わらず友人のMは「天才」だから大丈夫だと言ってくれました。
もう自分ではどうにも出来なくなったので、女性との出会いを求めて居酒屋でバイトを始めました。前に述べたようにパートナーを見つけることで人生が好転すると思っていたからです。
すごく忙しい店でてんてこ舞いでした。この頃には頭の働きが悪くなっていたので大変でした。
そして3日目に鼻血が出ました。止まらなくなって、これはおかしいと思い精神科の病院に行きました。するとバイトをやめるように言われました。
もうこの頃には心も体もボロボロでした。
どうしようもなくなって再び実家に帰ることにしました。実家に帰ると調子が戻り、また研究をしようという気持ちになります。
家族の心配をよそに大学に戻ると、また調子が悪くなりました。
悪い循環が出来あがっていたのです。
心理テスト
さてこの頃大学の保健管理センターで新しい心理テストの実験をしていました。参加者が少ないのでカウンセラーに参加してくれないかと言われました。
私はカウンセラーに世話になっているので快諾しました。さて受けてみると今までの心理テストとは違い、たくさん記入する箇所がありました。また文字を見つける単純作業を繰り返すなど、一風変わったテストでした。
後日結果が出たので保健管理センターの医者から呼ばれました。そこで言われたのは双極性障害Ⅱ型の可能性が高いということでした。
初めて聞く名前でした。カウンセラーに報告すると、カウンセラーもうつ病ではなくて双極性障害Ⅱ型だと思うと言いました。
医者の判断
そしてその検査結果をかかりつけの精神科の病院に持って行きました。
すると医者は「双極性障害Ⅱ型という概念が分からない。またこの検査が妥当なものかも分からない」と言いました。
そして今のうつ病治療を続けると言いました。
私は医者のことを信頼していたのでうつ病の治療を続けることにしました。しかし双極性障害Ⅱ型について調べると、そこで例に挙がっていた人のエピソードが私の体験と似ていたことに驚きました。やはり女性関係に調子を左右されていたのです。
凋落
それからはほとんど大学に行けなくなりました。
前に述べたように後輩たちから尊敬されていた私はもう見る影もなくなっていました。
大学院に入って研究の調子が良いときは、たくさん人が集まってきました。賞賛も受けました。
しかし、精神を病み、頭の衰えを隠せなくなってからは人が寄りつかなくなりました。「天才」だと褒めてくれるのはMだけでした。
周囲の人間は冷たいと思いました。自分が落ちぶれていくことを実感しました。今思えば周囲は病気の私にどう接していいのか分からなかったのでしょう。
しかしその時は誰にも相手にされなくなったと思って非常につらかったです。
うつが悪化する
そして遂には全く学校に行けなくなりました。
一日中ベッドの上で過ごすようになりました。
ご飯も食べられなくなってきました。
食事とトイレの時だけ起きるようになりました。
まるで廃人のようでした。それでもさび付いた頭で研究のことを考え続けていました。
もうどうにもならないと思いました。気持ちは焦るのですが体は動きません。
誰もお見舞いになど来てくれませんでした。もう誰ともつながっていないと思いました。
孤独を感じました。
再び入院治療へ
自分ではどうしようもないので、医者に入院治療を受けさせてくれと言いました。また以前のように入院治療を受ければ状況が変わるかと思ったのです。
医者は前と違う病院なら紹介できると言いました。そして違う病院で入院治療をすることになりました。
その時には前回とは違い私を病院まで送ってくれる人はいませんでした。
一人で電車とバスを乗り継いで行きました。
そして病院の受付に行くと男の人が待っていました。
そして開口一番「親はどうしました?」と詰問されました。
私は実家にいることを伝えました。
するとその男の人は「親はどういう神経しているのだ」と怒り出しました。私はすいませんと謝りました。
そしてその男は病院内に案内しようとしました。しかし、その入り口には2~3人の若い男性が床に這いつくばって、すごい目をしてこちらを見ていました。
明らかに「普通」ではないその人たちを見て私は怖くなりました。恐ろしくなった私は入院することをやめたいと男の人に言いました。するとその男はまた怒っていましたが、もう何を言われたか覚えていません。
そして帰りの電車に向かう途中に「もうだめだ」と思いました。暗い夜道を歩きながら過去を振り返っていました。やはり思い出したのは19歳の時の彼女のことでした。
私は実家に帰ることにしました。
今になって思うこと
この時点で私に必要だったことは休養だと思います。研究から離れて頭を休める必要があったのです。
しかし研究者にならなければならないという考えに縛られていました。とにかく結果をだして出世したいと焦っていました。
今思えば、研究者でも休養するということがあるので私もそうすればよかったのです。
ここでも前に述べたように森田療法で神経症気質の特徴だと指摘される、「~でなければならない」「~すべきだ」という思考のパターンに苦しんでいたのです。「普通であらねばならない」とか「人から尊敬される先輩であるべきだ」などとずっと自分を追い込んでいたのです。
また自分のことを素直に話せる友達がいなかったこともよくなかったと思います。元々プライドが高く、大学院入学当初は周囲に尊敬されていた私は他人に対して心を開くことが出来なかったのです。
カウンセラーや医者には心を開いて話をすることが出来たのが唯一の救いでした。
そんな二人が実家に帰った方がいいと言ったので帰ることにしました。
こうして大学院を休学して実家に帰ることにしました。しかし大学院を中退するという考えはありませんでした。できるだけ早く復帰したいと思っていたのです。
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