毒親育ちが自分本来の誇りを取り戻すために ⑫
魔界の入り口と魔法の鏡
物事を二元論でしか捉えられなくなってしまう時に人は、関わる人を窮屈で冷たい気持ちにさせる。
健全な自己愛と自分勝手は似て非なるものだ。
不健全に自己愛が肥大化してしまうと、自己満足の悦の世界に浸りやすくなってしまうようだ。
普通は抑止力になるのが「冷静な他人の目」だったりするのだが
そういう目線を排除した「無法地帯」ではブレーキは無い。
ブレーキの無い無法地帯で暴走されると、それに否が応でも付き合わされる方はただただ気色悪いだけだったりする。
様々なハラスメントが横行しても見て見ぬフリをすることになる。
そんな場にいたら聞きたくもない自慢や見たくもないアピールに要らぬ嫉妬や醜い感情を抱いてしまう事だってあるだろう。
アピールも殆ど虚構の世界だけど。
だが黒い感情自体を「悪」と捉えてしまっている集団だと
「そう感じる相手の心に問題がある」という暴論をさも正論の理屈のように唱え、開き直っていたりする。
そして「気分が悪くなるのも自分の責任」と罪悪感を持たせてくる輩もいる。
トップの人間も「人間」だ。
人間なのだから過ちも罪も犯すこともあるだろう。
「自分は嫉妬や醜い感情を持たない修行を積んだ人間です」とトップや近い側近が自分と人を騙すと、信者達は「嫉妬する醜い感情」にフタをする。
自分の醜い感情に目を背けて偽善信者が増えるほど、気持ちの悪い集団になる。
自分の心を素直に見つめられない時、醜い感情は人に投影しやすい。
そういう場の教祖(トップの人間)が、自分の持つ心の闇に気づいていない場合は、教祖の教えに忠実に従うほどに、同じ闇に引きずられることになりやすい。
そしてその煽り(ポジショントーク)を真に受けて、上の者が決めた「選民」から漏れまいと
「生真面目な優等生」ほど必死の形相でのめり込んでしまう事が多い。
悟りを開いたような気になっている人達は、開いていない(ように見える)カモを探している。
うっかり入口に迷い込んでしまった暁には数の暴力でマインドコントロールされてしまう。
そういう場所は、場の高揚感と非日常性と数の暴力で正常さを失いがちだ。
感覚が麻痺する空気が漂うところが怖い世界だ。
ここは「天国」「楽園」とか「同じステージにいる善人だけが気持ちよく過ごせる場所」みたいな空気も意図的に作り上げられる。
一歩間違うと、誰かにとっての「楽園」は自分にとっての「地獄」と何ら変わりない。
日常と全く違う異世界の魔界に入り込むようなものだ。
仲間内では、共に盛り上がり、共に盛り立てるポジティブシンキングを強要される。
まるで異常に興奮している薬物接種者と同じ空間にいるような気持ち悪さだ。
強制的にアガッた気持ちなんて数時間経てば元通りなのに。
むしろ浮き沈みのアップダウンの激しさに、大切な日々の日常が虚しく色褪せて映るだろう。
何気ない日常の地道な営みの繰り返しも、何にも代え難い尊い日々なのに。
だがそんな傍観者は水を差す邪魔者だ。
だから冷めた目線も
「捻くれて閉じこもっている不幸な人間」
「開いていない(分かっていない)下衆」として「悪」に仕立て上げる。
真面目な日本人は真面目に聞き馴染もうとする。
が、そもそも日本人には超ポジティブシンキングは合わない。
西洋が発祥の自己啓発やそれに付随したマインドコントロールの手法には、違和感を覚えて離脱する人も多いのだろう。
中にいる人達の持っている「手鏡」は、どんな醜い自分でも美しく映し出してしまう「魔法の鏡」だ。
だが一歩外に出たらその魔法は解けてしまう。
仲間内だけの狭い世界では気づけないのが「魔法の鏡」の怖いところだ。
魔法が解けた時。
それまでキラキラしていたものが急に輝きを失って色褪せて見える事があるかもしれない。
そしてそれまで見失っていた地上の地味なものがキラキラして輝きを放つ事もあるのかもしれない。
続く
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