DJ GOSSY

90年代にヒップホップのミックステープを出していました。

DJ GOSSY

90年代にヒップホップのミックステープを出していました。

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  • 地伝【京都編】

  • 地伝

    DJ GOSSYの自伝です。

最近の記事

地伝#35 🔳2009年 DJ再始動

iPhone 3GSが発売された年である。 不動産の営業を始めて2年が経った。働き始めた時の新鮮さは無い。仕事と会社の全体像も解り、営業マンとして成熟する時期を迎えた。 つまり、、、飽きてきた。 ここ2年は、今までよく遊んでいた音楽関係者と会う機会も少ない。休みは少なく残業も多い。現役のDJから脱落してサラリーマンをしている自分になんとなく恥ずかしさもあり、DJやラッパーと会うことを避けていた。 サラリーマン飽きた。 皆とまた音楽やって遊びたい。 そんな気持ちが、ぼ

    • 地伝#34 🔳2006年 サラリーマン

      DJとしての収入は途絶えたが生活するために稼がなければいけない。 なんとなく儲かりそうという浅はかな動機で不動産の営業職へ飛び込んだ。31歳。 ミックステープをたくさん作ったくらいしか誇れる実績がないので面接には紙袋に過去の作品を詰め込んで持って行った。何故かそれで採用されるほどの小さな会社だった。 AOKIで買ったスーツを着てネクタイを締めて新宿まで満員電車に乗る。ありがちなサラリーマンの世界は初めての経験で、まるでTVドラマの中にいるような気分だ。 もがきながら新

      • 地伝#33 ◾️ 2006年 DJとして終わり

        2006年 8/26(土)に渋谷eggmanでグロープの10周年イベントが行われた。 ネイキッドアーツはもちろんのこと、餓鬼、ガリヤも出演して僕もDJとして参加させてもらった。客も出演者も知っている顔ばかりの気楽なイベントだった。 この日はセラートのスクラッチライブを使ってDJをした。「海外のDJはPCでプレイしているらしい」と聞いて気になっていたのでわりと早くから使っていた。 しかし、このソフトの導入がヒップホップだけでなくDJにすら興味をなくすきっかけとなってしまっ

        • 地伝#32 ◼️2006年 THE BIGGEST CAMP

          走馬党のアルバムに収録しているTHE BIGGEST CAMP という曲がある。 これはQが企画していた日本で最大のヒップホップフェスの名前で、8月に長島スパーランドの野外会場、そして武道館での公演が予定されていた。 そのタイトル曲を走馬党で作ったのだ。 しかし、レコーディングの真っ只中に武道館の公演中止の連絡があった。興行主が突然の撤退。 スタジオにいたQの携帯電話はひっきりなしになり続けていて一日中対応していた。厳しい言葉を投げかけられたりもしただろう。 何より

        地伝#35 🔳2009年 DJ再始動

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        • 地伝【京都編】
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        記事

          地伝#31 ◼️ 2006年 走馬党

          春ごろに走馬党の1stアルバムを録音していた。 走馬党はタナケン、トシ君はもちろん三善さん、山田マン、そしてQまでトラックを作っていた。 各自がビートを持ち寄り、アパッチラボで聴きながら皆で選んでいく。 直感でサクサクと選定も終わり僕のビートも2曲使うことになった。それぞれのビートに対してこんなテーマだからこの曲は誰がラップして〜というのをザックリと決めてじゃあまた来週!というような感じでラフに決まっていく。 1日に1〜2曲づつ録音するんだけど数日の間に皆バッチリな歌詞を

          地伝#31 ◼️ 2006年 走馬党

          地伝 特別編 ◾️90's CISCO ALTA

          文 : Nee 友人のDJ GOSSYから96年~98年頃のレコードショップCISCOで私が働いてた頃の話を書いてほしいと言われたので書いてみようかな、と思います。 私がCISCOで働いてたのは95年~2000年頃です。 場所は新宿STUDIO ALTAビルの6FにあったALTA店。 働き始めたきっかけはGOSSYのブログ(note?)にも出てくる元NAKED ARTZのDJ、S@S(佐々木君)から誘われて。 当時20歳だった私は高校生の頃からレコードを買いに行ってた

          地伝 特別編 ◾️90's CISCO ALTA

          地伝 特別編 ◾️ 十三夜

          文 : CALMAN (CLIP13) 2021年6月18日 新潟六日町中目黒から新潟の六日町に車で向かっている。 商業車のバンで内装をDIYでキャンピングカー仕様にしているので、どこでも快適に旅が出来る。 リアの自作ベットに座っているのはDJのダイゴ 助手席に座ってるのはユウ事、YOU THE ROCK★ 11年ぶりにアルバムを発表し明日が発売後の初ライブ。 その会場となる六日町のBARMへの男3人旅がはじまった。 1992年9月 CLIP13オープン渋谷の電力館前

          地伝 特別編 ◾️ 十三夜

          地伝X ◾️2003年 最も知られていないテープ

          96年から販売をしてきたDJ GOSSYのミックステープで最も知られていないタイトルは2003年に発売した「DA VILL SHANA'S CHOICE #1 #2」だろう。 マンスリーテープは正直なところ人気がなくなってきていた。僕自身もヒップホップの新譜に対する熱が冷めてきていた。 同時に今まで「なんとなく難しい」と避けていたブレイクビーツやアブストラクトと呼ばれるようなレコードにハマっていた。ヒップホップのカルチャーよりも音の深さに持っていかれていた時期である。これ

          地伝X ◾️2003年 最も知られていないテープ

          地伝X ◼️2003年 MEGA HIP HOP

          このテープはグロープインザダークが運営していたインディーレーベル「UNDAPROP」から2003年に発売された。というか、売ってほしいと頼んだ。 MAGUMA MC'Sのアルバム発売を機会に名前をDGと略していた。理由はDJ GOSSYという字体が丸っこくてマグマのハードなイメージに合わないと思ったからだ。再デビューするような気持ちでDGにした。そしてDGを定着させようとしてミックステープを作った。 約4年間続けたマンスリーテープも終了して、その間に出来なかったことや、地

          地伝X ◼️2003年 MEGA HIP HOP

          地伝#30 ◼️2003年 インデモラル②

          ミックステープはたまに作る程度でインデモラルの活動が中心になっていった。池袋BEDで毎月「プレイグラウンド」というイベントをやりながらライブで各地を訪問した。青森でダイキのイベントにキラービーン&インデモラルで呼んでもらったこともあった。 岡山のセラオ君とKHACT BOMB CHOSS(カクトボンチョス)のイベントに呼んでほしいと頼んでインデモラルの3人で行った時もあった。まだまだ岡山にはインデモラルの名前も浸透していなかったので客の入りはイマイチだった。なぜか前日から当

          地伝#30 ◼️2003年 インデモラル②

          2002年 厚木でBBQ

          シンクタンクのBABA、JUBE、NAOとカルマンさん、山中さん達というGROPE & CLIPファミリーで厚木の山奥に遊びに行った。 河原でロケット花火の撃ち合いをした。ドアを全開にした2台の車を使ってチームに分かれて撃ち合うゲームだ。普通に痛いし服も焦げた。 今まであまり仲間でワイワイとアウトドアで遊ぶ機会がなかったので、こういった馬鹿ができる人達と遊ぶのは本当に楽しかった。 シンプルに狩猟民族感を出すJUBE君

          2002年 厚木でBBQ

          地伝 #29 ◼️2002年 インデモラル/走馬党

          この頃、餓鬼レンジャーはメジャーデビューして大忙しだった。しかし彼らの拠点は福岡だったのでたまにライブで会う程度だった。マグマはアルバム準備中で僕もレコーディングに参加していた。 そしてインデモラル/走馬党としての活動も本格的に始まった。グロープで知り合ったスキップが割と唐突に「ライブのDJやってくれない?」と言ってきた。 スキップとは同じ歳で、ちょこちょことグロープや渋谷のクラブで顔を合わしていたから知合いではあったし、QやARK、トシ君など走馬党の皆ともよく顔を合わし

          地伝 #29 ◼️2002年 インデモラル/走馬党

          地伝#28 ◼️2001年から2002年 物本

          マグマのアルバム発売に向けて準備が始まった。発売されたのは約2年の時を経て2003年である。 僕は東京、彼らは京都で別々に活動していたがアルバムに収録する10数曲のうち5曲を僕に作ってほしいと声をかけてくれた。良いトラックを作る人とのコネや予算も沢山あったのに、わざわざ僕を選んだのが彼ららしい熱さだと思う。 リリースは新しくできたレーベルMONOHON【物本】からで第一弾にリノさん、第二弾にマグマ、第三弾で妄走族の発売が予定されていた。 僕はMPC3000でビートを作っ

          地伝#28 ◼️2001年から2002年 物本

          地伝#27 ◼️2001年 和んでいた時期

          現在まで僕は100本近くのミックステープを作ってきたが、その中でも自分自身が最も納得できた内容のテープが2001年に録音したGOSSY'S CHOIE#38である。 このテープに収録しているKILLah BEENのエクスクルーシブで「2001、見せる意地」というフレーズがあり、常に頭から離れなくて困っている。 聴いてみましょう。↓↓↓ この頃の出来事を思い出したり、ナンバープレートやお会計で2から始まる4桁の数字を見るとキラービーンの声と共に「2001、見せる意地」が脳

          地伝#27 ◼️2001年 和んでいた時期

          地伝#26 ◾️2000年 爆裂サウンドシステム

          一戸建に引越して部屋が広くなったので念願の家庭菜園を本格的に始めていた頃の話。 スパイシーチョコレートがお台場の暁ふ頭公園で野外ダンスをやっていたのでよく遊びに行った。まだTwitterで開催の告知をできるような時代ではないので天気が微妙な日に行ったらやってなくて誰もいない時もあった。  スパイシーチョコレートは「爆裂」という名前のサウンドシステムを持っていて、どこのクラブでも聴いたことがない胃袋を掴むような低音と単純にバカでかい音量にすっかりハマってしまった。そのサウン

          地伝#26 ◾️2000年 爆裂サウンドシステム

          地伝 特別編 ◼️90年代の渋谷とNY

          文 : DJ SAS (GROPE IN THE DARK) GOSSYのこのブログは楽しく読ませてもらってるんだけど、急にDMがきてSASさんも何か書いてくれと。 ポチョも書いたから何か書いてくれと。 90年代の話をくれと。 ということで皆さんご存知無いでしょう昔渋谷のビルの4階で細々とHip Hopセレクトショップを営んでたおじさんが少し昔の話をします。 50歳の私は色々記憶喪失なので思い出せたことを何となく書いてみます。(文才も無いので読み辛かったらごめんなさい)

          地伝 特別編 ◼️90年代の渋谷とNY