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地伝 #29 ◼️2002年 インデモラル/走馬党

この頃、餓鬼レンジャーはメジャーデビューして大忙しだった。しかし彼らの拠点は福岡だったのでたまにライブで会う程度だった。マグマはアルバム準備中で僕もレコーディングに参加していた。

そしてインデモラル/走馬党としての活動も本格的に始まった。グロープで知り合ったスキップが割と唐突に「ライブのDJやってくれない?」と言ってきた。

スキップとは同じ歳で、ちょこちょことグロープや渋谷のクラブで顔を合わしていたから知合いではあったし、QやARK、トシ君など走馬党の皆ともよく顔を合わしていた。どちらかと言うとスキップ以外の走馬党メンバーとよく遊んでいた。桜新町の家にも来ていたし。そしてスキップはとてもシャイな奴だというのも知っていた。そんなスキップが大事なことを要点だけ唐突に言ってきた。

正直に言うとこの頃の僕はめちゃくちゃ調子に乗っていた。ミックステープも売れていたし色々と一緒にやらないかと誘ってくれる人達もいたが丁寧に断っていた。営業も各地に呼ばれていた、それに遂に関西最重要グループと言われていたマグマのアルバムが出るというタイミング。

そのGOSSYに(調子に乗っている)ライブのDJをストレートに頼んできたのが驚いた。シャイなスキップがこうして真っ向から頼んでくるのは相当な気持ちの強さだとも思った。即答はしなかったが3日後くらいに一緒にやりましょうと返事をした。それから20年くらいの付き合いになり現在も腹を割って話せる親友である。

2002年、海外ではNELLYのDILEMMAやEMINEMのLOSE YOURSELFが世界的にヒット、国内ではRIP SLYME の楽園ベイベーやTHINK TANKのフルアルバム、メジャーからアンダーグラウンドまで大量にヒップホップの新曲がリリースされていた。さらにインターネットも普及していて最新の音楽を手軽に聴けるようになってきた。

僕はミックステープを作ってヒップホップを広めたいという目的や熱意が無くなってしまった。カセットテープはデータで音楽を聴く時代にも合わなくなった。売上本数もジワジワと下がってきていた。

もうヒップホップは日本に広まっていたしインターネットでメジャーなものは聴ける時代になりミックステープを作る使命感がなくなっていた。1998年から作り始めたGOSSY'S CHOICEは2002年の#39で終了となる。

僕はインデモラルと共に新しい活動をスタートさせた。この時点ではインデモラルの一員としてライブDJをやっているだけで走馬党の一員だとは思っていなかった。ずっと単独で動いてきたのでどこかに属するというのは抵抗もあった。

Nツアーという大きめなイベントでインデモラルのDJとして我ながら良い仕事をしたと思える時があった。一通り褒めてもらった後、控室で山田マンがかなり軽い感じで「ゴッシー、走馬党に入らない?」と何でもないタイミングで言ってきた。これはウォーキンストアで「ゴッシー、正社員にならへん?」とタバコを吸いながら言った松岡さんと同じノリだったので、流れに乗るのが吉だと直感で感じた。

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