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芥川龍之介『南京の基督』を紹介。彼女を救ったのは、神か、人か、それとも…

どうも、宇宙ゴリラです。
皆さん、突然ですがこの「基督」という漢字を読みことができますか?
※ヒントは宗教関係。

正解は

基督=キリスト

 これでキリストと読むそうです、、、正直僕は全く知りませんでした。なぜいきなり、こんま漢字の話をしたかというと、本日は「基督」という漢字がタイトルについた小説を紹介したいからです。というわけで、本日は芥川龍之介の名著「南京の基督」を紹介していきます。

◇谷崎潤一郎の影響

 「南京の基督」は1920年に芥川龍之介によって書かれた小説です。
この小説は谷崎潤一郎氏の「秦淮の夜」に影響を受けて誕生しました。小説の末尾には、谷崎潤一郎氏に対する感謝が載せられています。

本篇を草するに当り、谷崎潤一郎氏作「秦淮しんわいの一夜」に負ふ所尠すくなからず。附記して感謝の意を表す。

芥川と谷崎と言えば、「小説の真髄に」ついて文学論争を引き起こした二人です。とはいえ、仲が悪かったわけではなく互いにリスペクトしあっていたようで、上記の感謝を綴った一文からもその様子がうかがえます。

◇簡単なあらすじ

中国の南京に住む15歳の少女「宋金花」
彼女は敬虔なキリスト教徒でありながら、病床の父を養うため娼婦として働いていました。
仲間の売春婦とは違い、嘘もつかず我儘も言わない彼女でしたが、
ある時、その身体を梅毒に蝕まれてしまいます。
金花は、娼婦仲間から「客にうつせば治る」という迷信じみた療法を教えられますが、「基督の教えにそむくことは出来ない」と客をとることを頑なに拒みました。
そんなある晩、彼女のもとにキリストに似た外国人の男がやってきます。
初めのうちは身体を許すことを拒んでいましたが、「この人はキリスト様かもしれない…」と感じた金花は彼と一夜を過ごしました。
その晩、金花は不思議な夢を見ます。
それは本物のキリストが金花の梅毒を治してくれるという夢でした。

翌年の春、この話を金花から聞いた旅行者は、
その男が、本物のキリストではなく偽者であることに気づきました。
旅行者は事実を伝えようか、黙っていようか思案し、金花にその後の症状を訪ねます。
すると、金花はその後一度も症状がないことを笑顔で話しました。

◇個人的な感想と解釈

なんとも言えない後味が、この作品最大の魅力だと僕は思っています。
何故ならこの作品の終わり方には複数の解釈をすることが出来るからです。

■ハッピーエンドの場合

 作中の流れ通り「金花」の梅毒が治ったと、考えるとこの話はハッピーエンドになります。治った理由が、キリストに似た外国人に梅毒をうつしたからなのか、それとも彼女自身の信仰の賜物なのかは分かりません。ピュアに考えると、ずっと信仰心を忘れなかった彼女におとずれたちょっとした奇跡みたいな感じでしょうか。

■バットエンドの場合

 ハッピーエンドとは逆に、金花の梅毒が治っておらず鳴りを潜めているだけであれば、この話はとてつもないバットエンドです。金花と関わった人は、誰も救われない物語になります。

実際、作中で旅行者は、金花の梅毒がキリスト似の男にうつり発狂したことを思い出しています。つまりキリスト似の男は、ただの人間であり奇跡を起こしたりはしていません。いずれ、梅毒は彼女の身体を蝕み、お客をとることも難しくなるでしょう。そうなると金花と病床の父は共に亡くなるという未来が待っています。

■ハッピーエンド、あるいはバットエンド

 ハッピーエンドとバットエンド、二つの解釈を比べると、この作品は極めてバットエンドの可能性が高いということが分かります(キリスト似の男が梅毒になり発狂したことからも、金花の梅毒は治っていない可能性が高い)。そもそも、本当におとぎ話のようなハッピーエンドにするのであれば、彼女の梅毒を治すだけでなく、娼婦という立場から脱却するような終わり方が望ましいはずです。作中では、あくまで金花の梅毒が治っただけで、病床の父を養うという状況は変わっていないのです。

個人的な意見としては「南京の基督」という作品は、十中八九バットエンドです。でも「もしかしたら救いがあるかもしれない」と匂わせているのが、芥川龍之介らしさなのかもしれません。社会の救いのなさに絶望しながらも、どこかで救いを信じていた。この作品には、そんな作者の考えが含まれているように僕は思います。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。

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