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連載小説「Maestro(マエストロ)」③

 NovelJam2024という執筆大会で描いた小説「Meister(マイスター)」と対となる小説で、稀代のバイオリニスト「ディルク・ドルン」について描かれた「Maestro(マエストロ)」の第三話。お楽しみください
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「Maestro(マエストロ)」③

 ギムナジウムの授業が正午過ぎに終わると、送迎の車でバイエルン郊外の自宅に帰宅する。料理人が作ってくれた昼食を摂り、バイオリン講師の指導で二時間強のレッスンを受ける。
 幼少時から何千回も弾いてきたパッヘルベルのカノンなどをていねいに弾いて調子を整えてからサラサーテやパガニーニの定番曲、そして都度課題曲の部分練習を行うのが習慣だった。地味な繰りかえしがほとんどだったけれど、バイオリンを弾くのは呼吸をするのと同じくらいのものだったのでなにも苦痛はなかった。ただ面白いかどうかでいうとよくわからなかった。
 家庭音楽講師はとくに模範演奏をするわけでもなかった。手放しでぼくの演奏を褒めてくれるのだけれど、特に指導らしい指導というものがあったわけではない。パパやママから受けたレッスンと比べるとどうしても物足りない印象がぬぐえない。こうやってパパやママ以外からバイオリンを習ってみると、あらためてその価値がわかった。パパやママは懇切丁寧に教えてくれる。とても厳しいときもあったが、うまくできれば心の底から喜んでくれた。それはバイオリンを通じた対話だったので真実味を帯びており、実りが多かった。それは喜びでもあり、楽しくもあった。
 ギムナジウムの卒業まであと八年間、上達の実感が得られないこの日々が続くのはまっぴらごめんだな、という気持ちが日々強まっていった。
 毎朝登校前にするノアの世話だけが唯一の憩いだった。でも、そのノアの背には乗ることができない。パパの友人でもある馬の調教師だけが、ノアに騎乗することができていた。かつてのぼくのように背中から振り落とされるような気配すらない。幼少時に彼から何度もコツを聞いたけれどもまるでダメだった。なにが違ったんだろう? 彼はサキソフォニストだったらしいが、サックスが吹けるようになったら、ノアをうまく乗りこなせるのだろうか、などと真剣に考えたこともあった。
 彼にその話をしてみると「関係ないよ」と苦笑された。ぼくは厩舎の馬の背を借り、調教師を乗せたノアと並走して乗馬の腕も磨いた。
 数か月に一度くらいの頻度でパパとママは帰宅するけれど、数日後には別の公演に向かうという繰り返しだった。最近まではヨーロッパ中心の演奏ツアーだったのだけれど、パパが言うには、ソビエト連邦最高会議? というものが解散してからはリトアニアをはじめ、欧州から東側へ行く機会がとても増えたとのことだった。
 ギムナジウムの座学ではクラッシック音楽の歴史も学んでいた。バッハが亡くなるまでの1750年までがバロック音楽時代とされ、その後古典派や印象派などの時代が続いたものの、二十世紀に入ってからは、そのような大きなまとまりができることがなくなった。
 パパからノアの騎乗をきつく禁じられたあの日、ベルリンの壁が崩壊してからさらに音楽の形は細分化されていった。東西ドイツの統一、大国であるソビエト連邦の崩壊から民主主義化が急速に進んで、枠が次々を外れていく中で、さまざまな文化の交流が自然と行われた。いわゆるクラッシック音楽を継承している「現代音楽」といわれるものもさまざまな変化を見せていた。
 ぼくは幼いころからずっとクラッシックばかり聴いて、また弾いて育ってきたので、現代音楽やほかのジャンルの存在にピンとこなかったし興味もなかった。同級生の中にはロック音楽を好むものもいたので聴かせてもらったけれど、どうにもぼくには合わないようだ。
 今日もバイオリンで古式ゆかしいクラッシック音楽を奏でる。

 第四話へつづく
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