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『臨床の知とは何か』を読んでは独り言

今日もまた
読み途中の本を放置し
手元にある
新しい本を開いては
こうして独り言を呟く

読んだんだか読んでいないんだか
積んだんだか積んでいないんだか
といった本達の中から
1冊紹介して
ゆる〜りと書き記していきたい

本日はこちらの本から一節お届けする

読み始めたばかりの本書
序文からの一節を引用する

では、一般的にいって、近代科学が無視し、軽視し、果ては見えなくしてしまった<現実>あるいはリアリティとは、いったいなんであろうか。これも今この<序文>では、大ざっぱに言っておくしかないが、その一つは<生命現象>そのものであり、もう一つは対象との<関係の相互性>(あるいは相手との交流)である、この二つは互いに結びついているが、ここでは一応分けて扱っておこう。

中村雄二郎. 臨床の知とは何か. 岩波書店, 1992, 5p

そして、もう一節、序文から引用する

最後に、近代科学の客観性は、基本的に、主観と客観、主体と対象の分離・断絶を前提している。だから、そこで捉えられる事物はいきおい独立性・自律性のつよいものになるが、そのような事物の捉えかたのもとでは、客観や対象とは、主観や主体の働きかけを受け被る、単なる受け身そのもの、受動的なものでしかない。つまりそこでは、事物の側からのわれわれに対する働きかけ、われわれの側からいえば受動になるような作用は一切無視され、無いようなものとされている。とはいえ、事物とわれわれの具体的な関係を成り立たせているのは、働きかけを受けつおこなう働きかけ、つまり受動的な能動とも言うべきものではなかろうか。そのような在り様を人間の営みとして具体的に示せば、自分の身体を他人の視線にさらしておこなう行動、つまり<パフォーマンス>ということになるだろう。

中村雄二郎. 臨床の知とは何か. 岩波書店, 1992, 9p

今回引用した文章から
対話やケアといった言葉を
頭の中で紐づけた次第である

先日
私事であるが
会社の会議に参加した際にも
<関係の相互性>が欠如しているな
と感じる場面があった

抽象化してお話すれば
会議自体の参加者は
私をはじめ
俗に言う中間管理職

そして私が違和感を覚えた件は
従業員に対しての話題に及んだ時だった

おそらく無意識に使っている言葉
言い換えれば
悪気なく使っている言葉に
得も言えない感覚を覚えたのである

「〜をやらせています」
「モチベーションを上げるためにも」
「できるひととできない人をわける」
一言一句同じではない
そして上記の言葉が発せられる口調は穏やか
そこに何とも言えない不気味さを感じたのだ

共に働く従業員が
モノとかしている感覚
バフチンの言葉を借りるなら
『声なき客体』であろうか

こうした会議が
和やかに進行する中で
物事が決まっていく様子に
<関係の相互性>がないと
感じた次第である

「言葉に気をつけなさい」
と言うマザー・テレサの言葉があるが
日常何気なく使う言葉を
あらためて気をつけていきたい
そう感じたひと時でもあった

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