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嫌われる勇気


嫌われる


人は誰でも、今すぐ幸せになれる。


いまのあなたが不幸なのは
自らの手で不幸であることを選んだからなのです。
不幸の星の下に生まれたからではありません。


アドラーは、そう言っています。
この本は、アドラー心理学を解説したものでした。

アドラー心理学では、
過去の原因ではなく、今の目的を考えます。

例えば

ある人が周りの人から酷いいじめを受け
それがトラウマ(原因)となって、引きこもりになった。と
過去の原因から現在のことを考えます。

アドラーは、その人が目的をもって引きこもっているのだ。
というのです。
引きこもれば、親から心配され、腫れものに触れるように大事にされる。
そのことを目的としている。
だから、彼は引きこもっているのだと。

また、

アドラー心理学とは、
他者を変える為の心理学ではなく、
自分が変わる為の心理学と言われています。
(アルフレッド・アドラー:オーストリア出身の精神科医・心理学者)



この本を読んで、なるほど。
そのような考え方もあるんだと考えさせられました。


本の内容は、自己嫌悪に陥っている青年と哲人との会話だけで進行します。
青年は、哲人の言っていること(アドラー心理学)が納得できないため
それは机上の空論・詐欺だと言って
哲人を論破しようと反論を続けるのです。
何日もかけて、哲人と話をするうちに
自分の人生をどうすれば変えることができるのかを
少しずつ学び、理解していくというものです。

◇◇◇◇


ある日、青年が哲人に
自分のことが嫌いで、明るいひまわりのような友人がいるのだが、
自分もそのように変われたらどんなにいいだろう。と話します。
それを聞いた哲人は、
あなたが変われないでいるのは、
自らに対して「変わらない」という決心を下しているからなのです。
と言うのでした。
人はいつでも変わることができる。
変わるという勇気がないだけだ。と

しかし、変わることは苦労を伴うかもしれないし、
ライフスタイルだって変える必要があるかもしれない。
人は変わることを恐れ嫌います。
それは、多少の不便はあっても変わらずにいる方が
この先の起こることが予想されるので安心だからなのです。

だから、変わる勇気がなければ、今の自分は変わらないままです。

青年は、幼い頃から優秀な兄と比べられ、
両親に認めてもらいたいために頑張ったけれど
一度たりとも褒められることはなかった。
ずっと劣等感や無価値感が強く、
そのため、自分のことが嫌いで仕方がない。
だからこそ、
自分の人生を変えたいと思っていたと言います。

ところが、

哲人は、あなたが不幸なのは、過去や環境のせいではありません。
ましてや能力が足りていないのでもない。
あなたは、ただ、
自分が傷つかないための保険(目的)として、

もし、変わろうとして失敗したとしても
自分は頭が悪く不器用で、性格も陰気な人間だから仕方がないのだ。
もともと、自分は変われない。(過去は変えられない。)

変わらないことを選んでいる。

いうなれば「幸せになる勇気」が足りていないのです。

そして、

これまでの人生に、なにがあったとしても、
今後の人生をどう生きるかについては何の影響もない。


われわれ人間は、原因論的なトラウマに翻弄されるほど
脆弱な存在ではない。
目的論の立場に立って、
自らの人生を、自らのライフスタイルを、自らの手で選ぶのです。
われわれには、その力があります。

また、哲人は、
全ての人は自由であり、シンプルなのに
自ら複雑にしているというのです。


すべての悩みは対人関係


哲人は、青年に説明します。


われわれは「同じではないけれど対等」なのです。
われわれは誰もが違っています。
性別、年齢、知識、経験、外見、まったく同じ人間など、
どこにもいません。
そして、
孤独を感じるのは、あなたが一人だからてはありません。
あなたを取り巻く他者、社会、共同体があり、
そこから疎外されていると実感するからこそ、孤独なのです。
また、
我々は人間は優越性の追求という普遍的な欲求を持っています。
もしほんとうに自信を持っていたら、自慢などしません。
劣等感が強いからこそ、自慢するのです。
自らが優れていることを、ことさら誇示しようとする。
そうでもしないと、
周囲の誰ひとりとして
こんな自分を認めてくれないと怖れているからなのです。
それから、
競争や勝ち負けを意識すると、必然的に生まれてくるのが劣等感です。
我々を苦しめる劣等感は客観的な事実ではなく、主観的な解釈です。

欠点のない人間などいません。

人は、自分が共同体にとって有益なのだと思えた時にこそ、
自らの価値を実感できるのです。


さて、

人に気に入られたいと思ったらどうしますか?

その人の言うとおりにしたり、合わせようとして
自己を押さえたりするのではないでしょうか。
この行為こそが、自分を不自由にし、
それによって、複雑になり
苦しむ結果になるというのです。

また、

他者の期待を満たすように生きることは、楽なものでしょう。
自分の人生を、他人任せにしているのですから。
たとえば親の敷いたレールの上を走る。
ここには大小さまざまな不満はあるにせよ、
レールの上を走っている限りにおいて、道に迷うことはありません。
しかし、自分の道を自分で決めようとすれば、当然迷いは出てきます。
「いかに生きるべきか」という壁に直面するわけです。

ユダヤ教の教えに、こんな言葉があります。

「自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば、
いったい誰が自分のために生きてくれるだろうか」と。

他者からの承認を求め、他者からの評価ばかり気にしていると、
最終的には他者の人生を生きることになります。


確かに、自分が嫌われるのは、とても悲しいことです。

でも、

他者の期待を満たすように生きること、
そして自分の人生を他人任せにすること。
これは、自分に嘘をつき
周囲の人々に対しても嘘をつき続ける生き方なのです。
他者すべてに良い顔をしつつ、自由を享受することは不可能です。

そこで、自分が自由であるためには
他人から

嫌われる勇気

を持つことが必要だというのです。

自分が自分の人生を好きに生きてはいけない理由など、
どこにもありません。

「他者からどう見られているか」ばかりを気にかける人生こそ、
わたしにしか関心を持たない自己中心的なライフスタイルなのです。
わたしは世界の中心に君臨しているのではない。

わたしは人生の主人公でありながら、
あくまでも共同体の一員であり、全体の一部なのです。

この世の中は、みな平等で、共同体として存在しているのだ。
その共同体というのは、自分がいてもいい場所である。
だから、存在しているだけで価値があるのだ。

人生における最大の嘘、それは「いま、ここ」を生きないこと。
それは、
過去を見て、
未来を見て、
人生全体にうすらぼんやりとした光を当てて、
なにか見えたつもりになることです。

あなたがどんな刹那を送っていようと、
たとえあなたを嫌う人がいようと、
「他者に貢献するのだ」という導きの星さえ見失わなければ、
迷うことはないし、なにをしてもいい。
嫌われる人には嫌われ、自由に生きてかまわない。
そして、
刹那としての「いま、ここ」を真剣に踊り、真剣に生きましょう。
過去も見ないし、未来も見ない。
完結した刹那を、
ダンスするように生きるのです。
誰かと競争する必要もなく、目的地もいりません。
踊っていれば、どこかにたどり着くでしょう。

世界とは、他の誰かが変えてくれるものではなく、

ただ わたしによってしか変わりえない。


自分が自分の人生を好きに生きてはいけない理由など、
どこにもありません。

「今、ここ」が充実していれば、それでいいのです。

人々はわたしの仲間なのだと実感できれば、
世界の見え方は全く違ったものになります。
そして、
人は感謝の言葉を聞いた時、自らが他者に貢献できたことを知ります。

世界がどうあるかてはなく、あなたがどうであるか

他者に貢献するのだという導き星さえ見失わなければ、
迷う事はないし、何をしてもいい。

すなわち

幸福とは、貢献感である。

それは幸福の定義です。

そして、青年は新しい人生を歩み始めるのでした。


さて、

貢献とは


貢献するとは、具体的に何をすればいいのだろう。
と考えてしまいますよね。
ゴミを拾うことも貢献だし、ボランティア活動も貢献
そればかりではないと思います。
というのも、私たちは一人では生きてゆけないのです。
私たちが暮らしていけるのは、
いろんな方のおかげだと思うのです。
今日食べたご飯の材料は、誰が
着ている服は、誰が
住んでいる家は、誰が
病気やケガをしたらどうでしょう。
当たり前のように使っている水道、電気、ガス、電話など
どれ一つとっても、
誰かのおかげで、自分の周りに存在しているものなのです。
また、私たちはそのように働いて、税金を払っています。
これもまた、貢献です。
寝たきりで何の役にも立たないと考える人が居たとしましょう。
その人の存在は、きっと未来を作ってきたはずです。
誰かの喜びになったはず。
誰だか顔は知らなくても、
知らず知らずのうちに
互いに協力し合って
この世の中は、成り立っています。

アドラーの言う、
わたしは人生の主人公でありながら、
あくまでも共同体の一員であり、全体の一部なのです。

正にこのことなのではないでしょうか。

そして、皆(仲間)が喜ぶようなことをすれば、
その喜びの波動が自分に届き
自分が幸せを感じ、
さらに幸運も一緒に届けられるのではないかと思うのです。

現に、大谷翔平選手は、ゴミ拾いをすることを
ゴミを拾っているのではなく、幸運を拾っているのだ。
と言っています。


私は、この本に共感とともに感動したのでした。



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