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こんにちは。
株式会社ロジック・ブレイン コンサルティングパートナーの園池涼一です

弊社の性格診断システムであるロジック・ブレインを利用して、歴代の首相の能力から成果を検証していきます。

また、コンピテンシーの観点からも考えていくと、かなり膨大な文章になります。
どのような行動を取ったことで、どんな成果が出たのかが大切です。

今回は第61代〜63代内閣総理大臣・佐藤栄作氏の人物像と業績です

佐藤栄作氏の経歴

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佐藤栄作氏の総合分析レポート

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佐藤栄作氏は理性タイプです。「良い悪い」という社会的規範や価値観をよりどころにして、理性的かつ知的な判断基準を優先するタイプ。
トラストタイプで人の気持ちをつかむ人

佐藤氏の戦略・理性、戦術・比較です。
・結構はっきりもの言える理性タイプ
・嫌なことは嫌、違うことは違う
本質が理性タイプ、結構はっきり言ってから、何であんなこと言ってしまったんだろうと落ち込む傾向があります。

佐藤栄作氏とは人の気持ちをつかむ人

池田勇人氏がガンを患ったためその後に後継者と指名されたのが佐藤栄作氏です。
総理大臣の在任期間は2798日間、通算では明治時代の桂太郎内閣(日連続で2886日)についで2位、連続では最長でしたが、安倍晋三氏(2822日)で現在は2位という実績です。

長期政権
戦後の総理としての最長7年8ヶ月もの政権を維持できた理由に、高度経済成長の波に乗ったこと、ライバルの不在が挙げられる。
ともに吉田茂門下の優等生だった前任の池田勇人総理が病に倒れたこと、水と油のようにいつも衝突していた総裁候補の河野一郎議員の急逝は、佐藤政権を長期化に導いた。

沖縄返還への執念
佐藤氏は師である吉田茂氏に最後まで付き従いました。吉田氏がサンフランシスコ講和条約で、沖縄におけるアメリカの統治を見てもざるをえなかったことは苦渋の決断でした。佐藤氏にとって沖縄返還は師がやり残した仕事でもありました。

人事の佐藤
佐藤氏は適材適所への人材配置、また田中角栄氏や福田赳夫氏といった曲者たちを競い合わせることが巧みなことから、「人事の佐藤」と呼ばれていました。人事に関する情報は一切漏らさない徹底した秘密主義。どのような実力者にも左右されず、人事はみずから決めるという姿勢をつらぬきます。

総理大臣としての業績

戦後26年目、沖縄の本土復帰 第1次佐藤内閣

佐藤栄作氏が総理に就任してすぐに掲げた重要課題が、沖縄返還。
「沖縄が本土に復帰してこそ、日本の戦後が終わる」佐藤氏がアメリカとの交渉に臨むのでした。

すれ違う日米の思惑
1960年代後半の沖縄は、アメリカにとってベトナム戦のための大切な中継基地であり、中国を牽制する軍事基地でもありました。
日本に返還したとしても、沖縄基地の使用、核兵器の持ち込みは認めさせたい。
一方日本は日米安保条約の枠組みのなか、基地の存在までは容認はできるが、核兵器だけは認められない。このようなやりとりが繰り返されていました。
当時の総理としての佐藤氏は「核抜きの本土並み返還」を旗印にしなければならないと決意していました。

沖縄返還のために活動を開始 第2次佐藤内閣

アジア諸国を訪問します。

1967年11月、佐藤総理は2度目のアメリカ訪問でジョンソン大統領、次いでマクナマラ国防長官とも会談し、ひたすら「沖縄返還は日米関係の強化に役立つ。変換によって軍事力が弱まったりしない方法を模索したい」と説得にあたります。

この説得により、「問題は返還にあるのではなく、アメリカの基地の扱いにある」と表明し、「沖縄はいずれ返還する」という言葉を引き出すことに成功します。

1967年12月11日、翌年6月に返還されることになっている小笠原諸島について、国会における社会党からの質問は「小川原諸島での核兵器の取り扱いについてどうなるか」に対し、
佐藤氏は「本土並み、つまり核の三原則、持たず、作らず、持ち込ませずを遵守する」と答えています。
これがのちの「非核三原則」と呼ばれる方針になります。

非核三原則と佐藤・ニクソン会談

非核三原則は核兵器を「持たず・作らず・持ち込ませず」の三つの原則です。

ニクソン会談
1969年のニクソン氏との会談では、沖縄が返還されることを前提に、当時の米ソの軍事バランス、欧州、中国の軍事力を説明し、日本の防衛強化を求められます。
対して佐藤氏は軍事的に世界の平和維持に加わることはできないが、経済協力塔のめんで努力する。日本自体の防衛については、防衛計画大綱に従い、海、空を中心に防衛力を強化していく方針であると答えた。

この会談の焦点は核への取り扱いです。

ニクソン氏は「施設権返還後、緊急事態が発生した場合、沖縄基地の使用について、どういう手続きでやるかが1番問題だと思う。これを共同声明でどう表現するか。自分は一案を持っているが、総理の方は案をお持ちですか?」と聞いた。

そこには日本の言い分を受け入れて核を撤去し、もし万一有事の際にでも、持ち込みの途も閉ざされては、沖縄基地の機能を維持できない、という不安があった。
ニクソン氏には軍部や議会を説得するだけの言葉が必要だったからです。

佐藤氏はその質問に対して、用意していたA案で応じます。
核兵器に対する日本国民の特殊な感情およびこれを背景とする日本政府の政策について詳細に説明した。
これに対しニクソン氏は深い理解を示し、沖縄返還を右の日本政府の政策に背馳しないように実施する旨を総理大臣に確約するのでした。

これは日本側に甚だ都合の良い案でした。

日本国民は核に対して特別な感情を持っているから、沖縄の返還に当たっては、核抜きにすることを大統領が約束したという共同声明原案であります。

ニクソン氏は「緊急時において、沖縄の米軍基地の機能をそこなわない」という文言を入れることを提案します、緊急時には核を持ち込むということです。

佐藤氏は「返還後の沖縄には、日米安保条約が何ら変更なしに適用されることになるので、日本政府は基地の役割を十分認識して対処していくが、共同声明の上で、重大な事態の際に、米軍基地の機能を損なわないと表現するのは非常に厳しい問題だ」と応じます。

しかし、ニクソン氏は米軍基地の機能維持になお意欲を示して、日米安全保障条約第6条の実施についての交換公文「事前協議」の取り決めを活用することを提案します。

事前協議は在日米軍の配置や装備の重要な変更を行う時或は日本の基地から直接戦闘作戦行動に出るときは、日本政府と事前に協議することを取り決めたもので、これによってアメリカ側は緊急時には、沖縄基地へ核持ち込みについて協議を行う道を残そうという提案でした。
「アメリカ国民や議会を説得するためには、事前協議の問題を、もう少し詳しく説明する必要がある」とニクソン氏は述べます。

そこで佐藤氏はニクソン氏の提案を予め念頭に入れて用意したB案を提示します。

「これに対し、ニクソン氏は深い理解を示し、日米安全保障条約の事前協議制度に関するアメリカ政府の立場を害することなく、沖縄の返還を日本政府の政策に背馳しないように実施する旨を、ニクソン氏に確約した」というものでした。

ニクソン氏はこのB案を一読して、「・・・この表現ならアメリカ国民を納得させられる」と述べてB案に同意しました。

佐藤氏のB案の提案により、返還交渉のヤマ場を乗り越え、かねての念願通り「核抜き、本土並み」に成功し、アメリカ側は「基地の機能をそこなうことなく」施政権を手放すことができるのである。そして会談の成果をお互いに祝い合うのでした。

この交渉からは佐藤氏の分析力がメインとなりそこに合わせて実行力計画力が活かされることでこの交渉を乗り切ったのでした。

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ニクソン氏がすんなりと「各抜き本土並み返還」を受け入れたのかどうかその点については当時から裏取引の存在が指摘されていた。

本土復帰へ 第3次佐藤内閣

1971年(昭和46)6月17日、琉球諸島・大東諸島(沖縄諸島の東にある諸島)の施政権を日本に返還することを規定した「沖縄返還協定」が衛星中継によりアメリカのワシントンと東京で同時に調印されました。

ここまでの道のりは、佐藤氏が総理に就任してから6年という月日を要するのでした。

沖縄返還から2年後、1974年(昭和49)10月、佐藤氏にノーベル平和賞が送られました。


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佐藤氏能力とビジネススタイル

note:ISDロジックで歴代総理を解説・佐藤栄作氏・能力

note:ISDロジックで歴代総理を解説・佐藤栄作氏・スタイル

ロジックにおける佐藤氏の能力は第一能力がと第二能力が分析力であります。合わせてビジネススタイルは協同的スタイルで計画力です。
また本質がT+なのでも実行力持ち合わせています。
ここでは第一能力と第二能力に焦点を当てていきます。

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佐藤氏のスタイルは協同的スタイル。佐藤氏の強みは人付き合いが良く統率力溢れる「人当たりソフトな社交型」です。

佐藤氏の政治はよく待ちの政治とされますが、それは表面的な見方で裏で策を尽くした上での「待ち」でした。

佐藤氏の人事戦略には分析力が活かされている
分析力は自己管理と分析が伴い、計画性に優れ、少し先を読むことができる能力です、さらに組織管理力実務力に分解できます。
この能力が佐藤氏の真骨頂と言えるのです。

佐藤氏の人事は、そのときの課題に対して適任の人材を適所に配するということを、派閥の均衡を取りながら行う絶妙なものでした。
それが「異例の人事」と映ることもあったがやがて佐藤氏の目が確かだったことがわかります。

例えば、3選後の閣僚人事で、前官房長官の木村敏夫を降格させ、沖縄問題に専念させてます。

一方他の派閥に属する者でも、前尾繁三郎派の宮澤喜一氏に対するように、惚れ込んだ相手を厚遇することもあり、その辺りが佐藤氏の人間臭さにもつながっていた。

人事の佐藤と言われるほど人選には定評があります。政策ブレーンの発起人である、産経新聞の記者だった楠田実氏が総理時代の佐藤氏に請われて主席秘書官となります。
沖縄返還に奮闘する佐藤氏を退陣の日まで陰で支えました。

総裁選出馬に際し、新聞記者である楠田氏の提案で政権構想づくりのチーム「佐藤オペレーション(Sオペ)」が組織されました。

慎重な現実政治家
「待ちの政治家」といわれていたように、佐藤氏の政治姿勢は慎重の上にも慎重を極めた。政策を実現するため、急がず、焦らず、一歩ずつ進む。最後まで本音を明かさないのも、途中で失敗することを防ぐためです。そんな佐藤氏も場合によっては慎重さをかなぐり捨てることがあった。慎重派だけに、まれに見せる大胆さがいかされました。

佐藤氏は若手議員に「相手の経歴は丸暗記してでも覚えろ、必ずメリットになる」と言って聞かせていた。これが佐藤氏が策を考える一つの手段であったと考えれます。

情報の重要さを知る
沖縄返還で、外務省は「核抜き本土並み」を決断した佐藤氏に非協力的だった。そこで佐藤氏は自前のブレーン(諮問機関)を使って情報の収集に努めている。相手(アメリカ側)が何を欲しているか、いつ頃が良いか、といったことを学者らをアメリカに派遣して徹底的に調べ上げた。それらの情報は外務省よりも早く的確だったという。
これが「早耳の佐藤」とも言われた所以です。

また当時、親米派で気鋭の国際政治学者である高坂正堯氏をブレーンとして重用します。
安全保障を軍事だけでなく、経済やエネルギー、食糧にまで広げる考え方はのちの自民党の指針にもなっています。

少し先を読むのが分析力の特徴です。単なる希望的観測によるプランニングではなく、あらゆる場面をそうてして起こりうる可能性を探ったうえで取りこぼしのない緻密な計画の立案が可能となり、計画にもとづいた実践的な業務をこなしていきます。

また、組織外の情報やルールを取り決め組織に落とし込み、内部から組織を作り上げるのです。ルーティンワークなど繰り返し繊細さが要求され続けることも得意で、最終的なカタチにまでもっていくスキルにも秀でています。

さらに実行力計画力さらに分析力が合わさることで、佐藤氏の功績があるのはいうまでもありません。
実行力は物事を達成するために直進的に推進させ、計画力は周囲の人の意見を引き出し巻き込みながら物事を円滑に進めるための能力です。

ニクソンとの会談でのやりとりがそれを物語っています。

最後までご覧いただきありがとうございます。

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参考文献 
池上彰と学ぶの日本の総理 第1号 吉田茂 小学館ウィークリー正伝 佐藤栄作 著/山田栄三 発行元/新潮社
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