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個性が大好きな日本人、でも個性を知り得ない日本人 N55

 日本人の個性(オリジナリティ)に対する恐ろしいまでの欲求、および自分は特別な存在である信仰(あるいは特別な存在になりたい願望)は世界の中でも例外的な現象だろう。前回の投稿のオリジナリティへのアプローチの続編として今回は日本人にとっての個性について触れたい。

 日本人は個性を取り違えている。教科書(常識)から外れることが個性と(オリジナリティ)とみなす人がいる。髪の毛を金髪に染めたり、爆音がするオートバイに乗ったり。これは社会的規範への反発であり、個性ではない。と中学か高校の思春期の頃に何かの本で読んだのだが、その時は意味がわからなかった。今、海外で生活し日本人と外国人の違いを知ることを通して意味がわかるようになってきた。私はこの反発したくなる心、国民共通の日本社会の規範や価値尺度にこそ、個性への飽くなく欲求が生まれる原因があると考える。

 良くも悪くも日本が価値基準を統一化できており、日本人が共通の価値の尺度を持っていることが個性という差異を生み出せなくなっている。つまり欧米人の個々人の価値観が違うことに対して、日本人は共通の価値観を持った上で個性という差異を求めていることが構図としてあるのだ。

 さらに日本の平等主義(能力主義の対義語としての)が拍車をかけている。与えられた場に属するものに対しては、その能力の差などに注目せずに平等に扱うのが、母性原理に基づく公平であり、その人がどこに属していようが、その個人の能力に相当する扱いをするのが父制原理に基づく公平さである(*1)。国際経験の豊富な臨床心理学者の河合隼雄先生は指摘する。

 そもそも国民の多くが高等学校卒業まで(今は大学卒業までか?)同じ教科書を使って同じ科目を履修するというのは海外から見ると奇跡としか言えない。能力主義の海外では能力に達すると飛び級で進級ができる一方、能力が足りなければ進級できない。日本人として飛び級は嬉しい話だが、留年は(しかも小学校とかで)受け入れがたい話だろう。だが父性原理の公平さとは決められた基準に達したかどうかでシステム的に判断することだけだ。しかし初等教育の段階からでも科目の選択も幅広く履修できる。偏食や食わず嫌いもできるが、自分の形が出来ていく。成績の良い悪いは評価されるものの、もはや他人と比較することは不可能だ、同じ土俵(共通基準)ではないのだから。

 しかし母性原理の日本は公立校に通ったとしても高校は偏差値で序列がつけられるだけで教科書は同じだ。高校生である限り全員平等なのだ。どんなに偏差値の高い高校に通おうが、どんなに偏差値の低い高校に通おうが、東京大学を受験する資格は与えられるし、試験で合格さえすれば入学は認められる。これはメンバーシップ型の企業でも同じ理屈で東大卒であろうが、高卒であろうが同じ会社に入れば誰もが社長を目指す権利が与えられるし、実際に実現が可能であることと同じだ。  

 つまり場において平等である日本人にとって、わずかな点数の差が優劣をつけることになり、またその場でしか競争ができないため必然的に落ちこぼれた不良はその場から退場する行為に出るしかないのである。

 しかし個性とはその共通の物差しで測ることではなく、主観的に幸せか否かを問うことでしかないのだが、共通の物差しで優劣をつけて自分が他人より優れているということでしか幸せを感じられない日本人は永遠に個性とは巡り会えない矛盾を抱えているのである。

 *1 河合隼雄「母性社会日本の病理」 

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