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未来/シンギュラリティは存在するのか?(1) 〜 コンピュータには何ができないか N116

 昔購入した本がえらく高価な値段で取引されているのを知って驚いた。『コンピュータには何ができないか――哲学的人工知能批判』(1*)が5−8万円で中古のオークションにかけられている。倉庫に送り込んだので手元にないが定価は5,000円くらいだったはずだ。最近のAIブームに乗って再ブームとなっているのだろう。  

 この著者のドレイファスがこの本を書いたのが1972年だが、今の人工知能の限界点に関しても依然として通じる論点を提示している(いや、まだこの限界点を人類が克服できていないと言った方が正しいか)。  

 一言でまとめるとコンピュータプログラムである以上形式化されなければならないが、果たして世界を形式化されたものとして認識可能だろうか?という問いを持って現在の人工知能の限界を指摘している(Wikiが上手にまとめているので詳しくは参照していただきたい)。

 これは今の人工知能にも通じる話で機械学習やディープラーニングも基本的には方程式で成り立っている以上、人間が設定したもの以上は期待できない。重回帰分析を回せるところで処理能力は人間を超えたかもしれないが、知能は超えていない。  

 そう言った意味でもシンギュラリティはまだまだ先の話だし、本当にそんなものはあるのか?と言える。むしろコンピュータの前に人類はこの哲学的な問題を解かないと先に進めないのだと私は思うところなのだ。  

 そしてこの人工知能のアプローチの致命的な欠陥は世界に正解(答え)があるという前提に立っていることで、もし答えがないということがあるのであれば成立しないのだ。  

 この世の中には答えがある前提の風潮はヨーロッパからはじまるルネサンス以降の啓蒙思想や進歩主義によるものだと私は感じていて、未来は希望に溢れているとか、明日の方がきっと良くなっている(なっていなければならない)と言った価値観を現代の私たちは持たされてしまっている。  

 それは当然産業革命による一人当たりGDPが急速に上昇することにつながるが、それ以前一人当たりGDPはほぼフラットだった(*2)。 

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 この生産性の向上は人類に成長という自信を持たせたのは間違いない。しかし進化していると感じるのは資本主義のスピードだけで、結果として再び富の偏りを取り戻したが実は人間自体は何も変わっていないはずだ。残念ながら私は空をまだ飛ぶことができないのだ。  

 そう。われわれは未だ未来派の熱狂の中にまだいると言っても良いのかもしれない。  

 このスピードの先にシンギュラリティが待ち受けているのかもしれないが、私の感覚ではまだまだ先のことだ。そう考えるとこの得体の知れないを孤独感や欠乏感は何千年も続くかもしれない。これがポストモダンの正体なんだろうか?  

1*)ヒューバート・L. ドレイファス、黒崎政男/村若修訳『コンピュータには何ができないか――哲学的人工知能批判』 

2*) The Maddison-Project Historical Database, http://www.ggdc.net/maddison/maddison-project/home.htm (2018 version)  

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