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僕自身のrootとrouteの物語 第4話 「TCKの仲間とつながる」

古家 淳
第3話「ふるさとはふるさとでなかった」はこちら

この文章の冒頭で僕はサードカルチャーキッズ(TCK)の定義を引用した。そこには「彼らが帰属意識を覚えるのは同じような体験を持つ人々との関わりにおいてである」と書いてある。
僕は高校で僕をありのままに受け入れてくれ、いまでも付き合いの続く貴重な友達を何人も得たが、別の高校に通う人も含め海外に住み日本に戻ってきた経験を持つ人を探し始めてもいた。まずはメキシコ日本人学校のクラスメイトとの再会を楽しんでいたが、同じ高校の中にも何人か仲間がいるのがわかった。ドイツのデュッセルドルフ日本人学校の卒業生もいたし、アメリカ合衆国で現地校に通ったことのある人もいた。高校を卒業したあとも仲間を探し続け、大学生のときにはブラジルと日本を行ったり来たりしながら育った女性にも出会った。彼女が取り組んでいた修士論文のテーマは、「外国で育ち、日本に戻ってきた子どもたち」。僕の学士論文のテーマも「帰国子女教育」だった。僕らは互いがそれまでに築いてきたネットワークを合体させ、日本で初めての「帰国子女自身による、帰国子女について考え、互いにサポートし合う」グループを立ち上げた。「メタカルチャーの会」というこのグループでは英語も日本語も使ってミーティングを行い、自分たちは何者なのか、日本に住んでいてどんな違和感を持っているか、日本の学校や社会に何を求めたいかなどを率直に話し合うことができた。自分たちの「アイデンティティ」を語る際に「居場所」とか「居心地」という表現を使うと便利なことも自然にわかってきた。僕たちが住んでいた「外国」はそれぞれ違ったが、いまではTCKの間で「あるある話」とされるさまざまな側面が共通していた。たとえば、どこかに根付いているという感覚が希薄であること。数年もたつと国境を越えたくてうずうずしてくるという人もいて、僕はその現象を「精神的ビザが切れる」と名付けた。

僕の家族も移動を続けていた。父は当初の予定どおりに1973年の秋に帰国したが、1年もたたずにふたたびメキシコに赴任した。日本で中学校に編入していた妹は日本になじめずに苦しんでいたので、この2度目の赴任についていくことにした。母は僕とともに日本に残って暮らしていたが、そのうち父が母の不在に音を上げて呼び寄せたので、僕は高校3年になる春から都内に下宿を借りてひとり暮らしをすることになった。受験生を抱える日本人家族にとってはあり得ない話だったかもしれないが、僕はひとり暮らしを堪能し、初めての恋人や帰国生仲間、高校の仲間と大いに楽しんだ。それでも大学に合格できた。

家族が2度目のメキシコから帰国してきたのは僕が大学3年のとき。ふたたび社宅をあてがわれたが、何年も無人だったのか荒れ果てていた部屋を片付けて住めるようにするのは僕の役割だった。風呂場などはカビだらけ。それを剥ぎ落としてペンキを塗った。そのための道具も探して買ってきた。どうにか住めるようにはしたが、メキシコで広大な家に住み慣れた母にはこの社宅が狭すぎて、動くたびに壁や柱にぶつかって生傷をつくっていた。そこで横浜の郊外に広めのマンションを買い、一家で引っ越した。当時としては珍しく家中に畳が1枚もなかったが、広さだけはあった。父はその後ブラジルへ転勤。母は父とともにサンパウロに住むことにし、大学生になっていた妹は僕とともに横浜の家で暮らすことになった。僕は大学を出てテレビ番組を制作する会社に入ったが、あるときブラジルでのロケに付き添うことになった。僕はその間、両親の家に寝泊まりしたので、ロケ費用の節約に貢献したことになる。

左:ブラジルのロケ先でのスナップ
右:マンハッタンのアパート。ここの半地下に住んでいた。

1983年になると、僕は担当していた番組からニューヨーク駐在ディレクターとして派遣された。テレビ局としてではなく、番組独自で駐在ディレクターを置くのはたぶん前代未聞だったはずだが、僕は新婚の妻とともにマンハッタンに住み、休日にイーストビレッジを散策したり夜中でもワシントンスクエアを散歩したりしていた。日本に戻ったのは翌年で、僕らは同じ横浜市内でも実家とは離れたところにアパートを借りた。
そのアパートには10年近く住み、その間に二人の男の子が生まれたが、僕には家を買うという発想がまったくなかった。例の「自分のホームはどこか?」という疑問への答えもわからないままでいたが、そのころになるとこの疑問はTCKの間で最大の難問であることを理解していた。
テレビの仕事を何年か続けたあと、僕はフリーランスになり、海外子女と帰国子女を主題にした月刊誌(注)の編集にも携わるようになった。帰国生を相手にインタビューを行うときに、自分も帰国子女であると言えるのは大きな利点となり、僕自身は自分を「日本人でもメキシコ人でもアメリカ人でもない、帰国子女である」と捉えるようになった。

注:この月刊誌で僕が書いた記事の一部はここから読むことができます。

次回「居場所を見つけた」につづく。


この物語は当初、日本語を解さないTCKの友人を念頭に英語で書きました。日本語版は、それをもとに加筆修正したものです。互いに厳密な翻訳になっているわけではありません。第4話の英語版はこちらでお読みいただけます。

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