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僕自身のrootとrouteの物語 第1話 「家族の物語」

古家 淳

はじめに

「サードカルチャーキッズ(TCK)とは、発達段階のかなりの年数を両親の属する文化圏の外で過ごした子どものことである。TCKはあらゆる文化と関係を結ぶが、どの文化も完全に自分のものではない。TCKの人生経験は彼らが関わったそれぞれの文化から取り入れた要素で成り立っているが、彼らが帰属意識を覚えるのは同じような体験を持つ人々との関わりにおいてである。」

『新版 サードカルチャーキッズ⏤⏤国際移動する子どもたち』
デビッド・C.ポロック、ルース=ヴァン・リーケン、マイケル・ポロック著、
嘉納もも、日部八重子、峰松愛子訳、
2023年

帰国子女も含めTCKは「あらゆるところに属すると同時に、どこにも属さない」。また彼らの「ふるさと」は「どこでもあると同時に、どこでもない」。僕も同様であった。僕には翼はあっても根っこがないと考えていたこともあるし、「ご出身は?」という問いはTCKにとって最大の難問でもある。「ふるさとは?」も同様だ。しかしながら僕たちだってこの問いに答える努力をしないわけではない。それは自分が何者であるかを知るためでもあるからだ。その努力は、ときに一生続くこともある。この文章は僕個人の居場所探しの物語だ。

家族の物語

父は1931年に生まれた。父の田舎は熊本県の山間にある村。2018〜19年度にかけて放送されたNHK大河ドラマ「いだてん」の主人公、金栗四三の出身地の近所である。僕も父の田舎を何度か訪れたことがあるが、自分ひとりで行ったのは15歳のときが最初で最後。父に渡された道案内に従って熊本市のバスターミナルからバスに乗って県境近くの町にある終点まで行き、そこでタクシーに乗った。村に近づくにつれてほかの地方では珍しい我が家の名字が道端の看板やら表札に多く見られるようになっていく。タクシーの運転手は小川にかかる橋のたもとにある郵便局の前でいったん車を停め、そこにいた老婦人に行き方の詳細を尋ねた。一通り会話が終わると運転手は窓を閉め、「いやあ、何を言っているのか聞き取れなくて」とぼやいたので驚いた。僕の耳にはふたりとも同じ方言を話しているようにしか聞こえていなかったのだ。
郵便局の前の橋は村の入り口だった。父の生まれ育った家に世話になっている間に裏山にある墓地にも連れていってもらったが、なかにはどれぐらい古いものだろうか、碑銘が読めなくなっているほどすり減っている墓石もあった。

1945年ごろには、父の一家は広島県呉市に住んでいた。こうの史代『この世界の片隅に』に描かれているのはほぼ同時代の同じ街の姿だろう。父方の祖父はそこで産婦人科医院を営むと同時に海軍軍医としての地位を得てもいた。呉は軍港の街だから、祖父は軍人の家族の出産を数多く手伝ったはずだ。祖父は空襲で亡くなったと聞いている。丘の中腹に水平に掘られた防空壕に爆弾がまっすぐ飛び込んできたそうだ。祖母が父を含めて三人の兄弟を連れて熊本に戻ったおかげで、原爆の被害に遭うことは免れた。
戦後、父は新制高校の1期生として県内随一の男子校を卒業し、熊本大学に進んで化学を学んだ。

母は1933年に熊本市内の株屋の娘として生まれた。娘だった母にまで土産を持ってきてくれていた羽振りのよい顧客たちが、ある日突然身を滅ぼして小銭をせびりに来るのを目撃していた母は、投資の恐ろしさを生涯忘れなかった。やがて県内随一の女子高に進んだ母はどうしてか父と出会い、恋に落ち、結婚を約束した。父が大学を卒業するのを待つ間、母は東京に出て服飾デザインを学んだ。恩師のひとりにアトリエに入ってプロになる道を勧められたが、母は父と結婚するために熊本に戻った。その決断がなかったら、僕は生まれていなかっただろう。

次回「移動しながら育つ」に つづく


この物語は当初、日本語を解さないTCKの友人を念頭に英語で書きました。日本語版は、それをもとに加筆修正したものです。互いに厳密な翻訳になっているわけではありません。第1話の英語版はこちらでお読みいただけます。

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