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安心したいけれど

ただ安心したいだけなんだ。
次から次へと溢れてくる不安を捌いてみたり、無視しようとしてみたり、考え込んでみたり。
そんなことをずっとずっと繰り返している。
それは、安定とは程遠い立場で、ぐらぐらしたままなんとか立っている状態だからなんだろうか。
いや、例え世間的な「安定」が手に入ったとして、また別の不安が押し寄せるんだろう。

明日死ぬかもしれない私たちに安定なんか元々ないんだよ。
五秒後に竜巻が起こって巻き込まれる可能性だってあるんだからさ。
不安があまりにも手に負えなくなると私は、いらない情報を含めて情報をただただスクロールする、それに疲れたら眠り、こんなことしていたくないんだと思って自己嫌悪に陥って、こうして文章化してみたりする。
情報でなにかを誤魔化そうとする。これが現代人なのだろうか。
雑音で私の不安はまぎれたりはしなくて、眠ってしまうための疲労と鬱をためるだけ。
こんなことも仕方ないなとは思えているのだけれど。

お金や病気などの不安より勝るのは、人と人との関係性の不安。
家族は、法律上のつながりは途切れないから、その関係性は基本的に維持される。
もちろん、そのことで深く悩んでいる人も、苦しんでいる人もいるけれど、それはある意味人間関係の中で一番安定しているものだと思う。
結婚って、そういうことなのかもしれないと最近思うようになった。
私にはできない、する意味がわからないと思っていたけれど、する人、したい人の切実な想いって「安心」にある気がする。
神や法やなんらかの縛り、または財産を共にするという縛りで結びつけば、それは言語界では絶対的な効力を持つ。
それって生きていくうえでの安心になんだろうなって。

LGBTQ+の人々が、結婚制度を求めるのもそこにある。従来の法に従うの?そんな制度クソくらえだっていう立場の人もいるけれど、「安心」を選択したい人たちにその選択肢がないのはやはり酷だ。
選択肢は平等にあるべきだもの。その中で各々が自由に選んでいけばいいだけの話。
私は、今まで結婚制度クソくらえ派だったのだけれど、なんだろう、大切な人との関係性の中で不安について考えているうちに、結婚を選択する人の気持ちもきちんと理解できるようになった。
まあ、せめて別姓制度くらいはできてほしいところですが。ジャパン、もっと多様な家族の形態あるといいと思うよ…本当に。


言葉で伝えあう「すき」と気持ちの「すき」だけで時間を共にするには、信頼関係が重要になる。
あまりに儚くて切ない結びつき。
もっともっと物事をライトに考えられる人たちは、その結びつきを軽々と作り軽々と脱ぎ捨て、「エモい」なんて言いながら風景を切り取って、踊るように生きるのだろうか。
わたしにはできない。なんでもかんでも重たいの、わたし。

でも、わたし、不安だからって自ら壊そうとするな。安心に逃げるな。
子供じみた破壊行動はもうやめにしよう。安心を欲する前にすることって山ほどあるんだよ、きっと。
不安を味わうのは苦しい。
儚くて、胸がぎゅうってなる。想いが喉元を狭くする。
誰かの足枷になるのが怖い。
だけど誰かの隣を捨てきれない。
あたたかい温度の幸せを知ってしまった。だから怖かったんだよ、だからやめておけばよかったんだよと一年前の私は笑うだろうか。

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