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ファッション化する料理 (Amor polenta)

 今日は少し悲しいことがあって珍しく心が沈む。心が沈むと文章は書けないのだろうか。そんな気もしていたが、とにかく書き始めてみる。もしかしたら書いているうちにテンションが上がっていくかもしれない。それに今朝読了したアガサ・クリスティーの「春にして君を離れ」がどうもシンクロしてしまっていたのだ。(あとがきは後で読んでみる。自分の感覚が他人に被せられて、知らず知らずのうちに自分の元ある感情が消えてしまいそうで怖いから)この小説はミステリーだけれども実際には何も起こらない。ずっと母であり妻である女性の回想で物語は進行する。主人公は自分が良き妻であり母であり、理想の家庭を築いたと自負しており、その様子を振り返っている。しかし随所随所でその記憶と自分の解釈に疑いを持っている自分と向き合うことになる。実は見えていたのに、見えていなかったフリをする、蓋をする。この本を読み終わった後、私は主人公を追いかけながら知らず知らずのうちに私の母を思い浮かべていた。しかし今この沈んだ私にとっては、彼女は私でもあることに他ならない。(これは私の母と私が似ているからという理由ではない。全く別の観点からなのだが、この主人公に二人とも当てはまる)主人公を母だと認識していた時は、私は主人公に対して反感を持っていた。しかし私として置き換えてみると、必ずしもそうではないのだ。私のことを小さい頃からよく面倒見てくれた女性は、子供を産んだ私にこう言った。

「母は常に明るく、家庭の中で太陽であり続けること。」

 実際に家庭を持っているとそれも一理だと思ってしまうのだ。独身の時はきっと反感を持っていただろうこの言葉に、今は両手をあげることしかできない。果たして本当の自分に向き合うことが、家族の幸せになるのだろうか。自分に疑いを持つことをごまかし続けて、自分の感情を堪えて、母を演じていくべきなのだろうか。

 話を変えよう。

 先日髪をバリカンで切った時の姿鏡を屋上のコンクリート床面に放置していたら、子供がしゃがんで自分の顔を覗き込んで見ていた。その姿を見ていたらギリシャ神話のナルキッソスの話を思い出したのだ。

 ナルキッソスとは「ナルシスト」の語源にもなっている美少年の話だ。

あるエコーという名のニンフがゼウスの妻の怒りを買ったために、自分で自ら声を出すことが許されず、他人の言っていることを真似することしかできなくなってしまった。しかしエコーはナルキッソスに恋をしてしまい、しかし自ら愛の気持ちを伝えられないまま彼を追いかけ回す。ナルキッソスは、他人の言葉を繰り返すことしかできないエコーを「退屈だ」と言って捨てる。エコーはそのまま悲しすぎて、声だけの木霊になってしまう。それを見たネメシスという神は「他人を愛することができないのならば、自分しか愛せないようにしてやる」とナルキッソスに罰を与える。ある日ナルキッソスは水を飲もうと池に顔を近づけると、そこに美少年がいた。それはナルキッソス本人であるのだが、彼はその自分に対してどうしようもない恋心を抱く。好きで好きで仕方なく、口づけをしようとするが何回試してもできない。ナルキッソスはそのまま苦しくて苦しくて死んでしまうのである。やがてその池には水仙が咲いたという。

 ギリシャ神話はいつも神が理不尽で不条理でどうも突っ込んでしまうのだが、(エコーが人の真似しかしないんだったら、それはナルキッソス『退屈だ』って言うでしょー罰キツすぎるでしょー)もちろん何かのメタファーなのだろう。私には誰が悪いとかではなく、嫉妬が苦しみを生み、また苦しみを生み、と他人に波のように広がっているとしか思えない。

 ファッションはナルシシズムであるべきだと思う。「私がきれい」と思える服を作り、選び、着こなすことだと理解している。しかし、最近料理もファッション化しているようにも思う。確かに料理を美味しく見せることは重要かもしれない。私も自分の料理を美味しく見せようと心がけて写真を撮っていたりする。しかし最近よくみる食べ物の写真は良く見せようと心がけすぎている写真が散見される気がする。その結果、どれもスタンプで押したみたいな、そう、エコーみたいな?感覚を覚える。その「写真を撮ること」に一番精を出している感じが伝わってくる。なので美味しそう、と言うよりも「綺麗ー!」って言う感想が先行してしまうのだ。だから「ご飯おしゃれー!」みたいな感想よく聞きませんか?食べ物におしゃれーって私は昔から違和感があります。そう、デパートのレストランの店前のウィンドウに飾ってある食品見本を見たときの感想みたいな。「なんて精巧なんだ!」と言う塩梅。

 そういう写真を撮っている人たちが、本当のイタリアの田舎料理見たらびっくりするかもしれない。もしかしたら食欲が湧かないのもあるかもしれない。けど美味しいんだーっこれが。(そういえば、日本の納豆の美味しさを写真で伝えるの難しそう)

 ポレンタを食べ慣れてる人は日本では少ないかもしれない。北イタリアは(どちらかと言うと東側?)パスタもPizzaも食べない、主食はポレンタである。日本で見るポレンタも、焼かれてクロスティーニみたいになっているのが多いかもしれない。私の夫の叔父叔母がいるTrentinoはポレンタをよく食す。それもとうもろこしの粉をお湯で練り固めただけの。ちょうどそばがきみたいな感じだろうか。見た目は決して美味しそうでない。食欲がわく外観ではない。(クロスティーニの方が食べやすい)けどこれが不思議なことになんとも美味しい。私はやみつきになる。しかしなぜかポレンタの粉を持って帰って日本で食べると、あの時の感動は薄れてしまう。なんでだろうな。気候とかもあるのかもしれないけど、それだけではない気がする。

 ポレンタは見た目が悪い食べ物だ。しかし、その中でもこれは見た目がいいポレンタかもしれない。その名もAmor Polenta(アモール ポレンタ)、ポレンタの粉で作ったケーキだ。Amor(愛)、Amoreよりもポエティックに使われることが多い。(反対から読むとROMAとか言ったりして)Lombardia州のポレンタを愛する人たちが作ったDolce。ブワッとくるとうもろこしの香りと甘み、本当に美味しい。北イタリアらしくバターが多いケーキ。(粉1:バター1!!)イタリア(中部)に日本のお菓子とか持っていくと「Troppo Burro!(バターすぎる!)」って罪悪感が出るぐらい言われるけど、これはそう言う意味で私たちに親しみがある。我が家はたまに朝食で食べます。

※レシピ Ricetta

ポレンタのケーキ(Amor Polenta)

<材料>ingredienti

・ポレンタ 130g

・薄力粉(farina00) 130g

・バター 130g 

・アーモンドプードル 80g

・卵 1個

・ベーキングパウダー 小さじ1

・砂糖 100g

・ブランデー 大さじ1

・牛乳 大さじ1

・レモンの皮


1. バターをクリーム状になるまで攪拌

2. 砂糖(半量)を混ぜ合わせたら、卵黄のみ混ぜる。

3. ブランデー、牛乳、擦ったレモンの皮を混ぜる

4. 別ボウルで砂糖(半量)と白味でメレンゲをたてておく

5. メレンゲをひとすくい、3に混ぜ合わせ、粉類をふるって半量入れてヘラで切るように混ぜる。

6. 残りのメレンゲをいれて満遍なく混ざったら、粉を全量入れて混ぜる。

7. 170度のオーブンで40分焼いたら出来上がり!

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そういえば最近、鶏続きですね。Amor Polentaの型はよくあるのは半円型のです。パウンドケーキの型で焼く時もあります。


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