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 朝。目覚まし時計の鳴る音で私は目が覚めた。と同時に、頭の中のチップが作用し、曲がかかる。好きなバンドグループの最近リリースされた新曲だ。一度聞いてからというもの頭から離れない。ここ数日は、この曲をベッドから飛び出すための力に変えている。

「素晴らしい目覚め。今日はいつになく良い気分だ」

 ベッドから降りて窓を開けた。音楽は先ほどの新曲から、落ち着いたポップスに。高層マンションといえる私の部屋からは、都会の街並みが見渡せる。

 高速道路の上を無数のトラックが行き交っていた。空には多様な大きさのドローンが、目には見えない空路にのって荷物を運んでいる。そして、もうしばらくすれば空軍の演習の時間だ。我が国の守護という大義のもと、最新の軍用機がけたたましい音を上げながら、次々と空を舞うだろう。

 私は遊び心で、チップのノイズキャンセリング機能を解いてみた。想像以上だった。思わず耳をおさえたくなる。

 トラックの音。ドローンの音。軍用機のエンジン音。消防車のサイレン。救急ヘリの飛行音。上の階の足音。隣の部屋のエレキ。反対からは、夫婦喧嘩のキツい口調も聞こえてくる。

 空を飛ぶドローンの中にはスピーカーを搭載しているのもあり、それらは国家や企業のアナウンスを鳴り響かせていた。

「来週日曜は国民投票。来週日曜は国民投票。皆さまの清き一票をお待ちしております。ご都合の合わない方は、期日前投票を必ず……」

「定年退職後、あなたはどんな生活がしたいですか。ワインを片手にプールサイドでのんびり過ごしたいのなら、今のうちから投資信託を始めるのです。ご相談は、フリーダイヤル……」

「真っ白な歯は初対面の印象を向上させます。学生の皆さま、わが社の歯みがき粉をまだお使いじゃないのですか。いまや就職活動の必需品なのでありまして……」

 情報はいまや、ありとあらゆる手段で私たちに入りこもうとしている。どこへ行っても、広告やゴシップがあふれかえっている世の中になってしまった。

 騒音。情報の渦。気が狂いそうだ。チップがなければ、正常でいられやしないだろう。発明にあらためて感謝したい。

 一昔前、ノイズキャンセリングという技術が開発された辺りがスタートラインとなり、イヤホン業界は次から次へとイノベーティブな歩みを続けている。「イヤホン」という言葉も最近では耳にしなくなった。というより、イヤホンは耳につける時代ではなくなったのだ。

 去年発売された、マイクロチップ型の最新機器。体内に埋め込んだチップが脳に直接作用し、音楽を再生するというもの。耳から伝わるよりも、より臨場感を生み出し、頭の中がいつでもライブハウスになるのだ。

 チップの埋め込み方法も非常にシンプル。注射器のようなものを使って腕からチップを注入すれば、血管を通って脳の近くまで運ばれる。大がかりな手術は一切必要なく、手順書通りに行えば子供でも簡単だ。

 しかもチップは、わざわざ再生機器と通信しなくてもよい。脳とリンクしているから、自分がかけたいと思った曲が即座に記憶の引き出しから呼び起こされ、頭の中で回りだす。

 再生や停止をこまめに繰り返したり、聴きたい曲を膨大なプレイリストの中から検索する手間はなくなった。無論、シャッフル機能を望めば、ランダムに再生することだってできる。

 これだけでも充分に大発明と呼べる代物だが、革新的だったのはむしろノイズキャンセリング機能の飛躍的向上だ。ユーザーの多くがそうであるように、私もこの点をなにより気に入っている。

 チップは、ユーザーが必要ないと判断した音を「ノイズ」として学習し、打ち消しの音波を発する。つまり、ハイウェイの騒音、工事現場の機械音、暴走族、上司の説教など、必要ない音はチップが打ち消してくれる。

 ただでさえストレスの多い世の中。小さなノイズも積み重なれば、磨耗する要因の一つだ。それらを耳にすることなく、代わりに自分の好きな音楽を楽しむことができるのだから、どんなに心に良い効果を与えるだろう。

 安全性にも隙はない。車の運転のように、音で危険を察知しなければならないシーンでは、かすかな音もノイズとはいえない。闇雲に打ち消していては危険だ。音は身を守るための大切な情報でもある。ゆえに発達してきた聴覚。必要な音はきちんと届けられた。

 革新的な性能と使用までの手軽さがかけ合わされば、流行するのは、もはや当然といえた。発売以前から、テレビや娯楽コンテンツで広告がうたれ、瞬く間に大ブーム。老若男女にうけ、もはやチップを埋め込まぬ者のほうが圧倒的少数となった。

 すさまじいアイデア。我われの生活は一辺した。産業は静穏性に配慮する必要がなくなった。浮いた費用は、広告費や本質的な性能向上にまわされ、発展は日々加速していく。まさに人類史に残る革命。

 かくいう私も、世間に遅れながら半年前にチップを購入し、利用している。きっかけとなったのは妻との別れだった。妻はよそで男をつくり、何もかも置いて家を出て行った。新しい男は、この産業革命の波にうまく乗った若い実業家だという。それで私の心はずいぶんと乱れ、平静を取り戻すために、チップを買うことにしたのだ。

 手に入れたのは正解だったと思う。妻をなくし、自覚できるほど過敏になっていた感情。ささいないら立ちを引き金に、嵐のように波立っていたが、不要な音を排除した生活により少しずつ心が穏やかになっていった。

「久しぶりの休日だ。今日こそはあの部屋の片付けをしよう。もう、落ち着いていられるはずだ」

 私は妻の使っていた部屋のドアを開ける。中に入ると、この空間だけ、半年前に時が止まっているようだった。ベッドの上でグシャグシャになっているパジャマだけが、妻の存在をわずかに証明していた。

 彼女は、私との生活を全て置き去りにした。全てを残してとつぜん消えてしまった。家具も、靴も、思い出も。そして、二人で授かったこの坊やまでも残して。

 母親がいなくなり、坊やはひどく泣いた。独りぼっちで泣いた。声の続く限り泣いた。それは叫びのようなものだったかもしれない。母親を求めていたのか、それとも父親の私を呼んでいたのか。いずれにせよ、私は坊やの声を聞くのをやめた。

 今までなら、隣人の誰かが泣き声に気づき、違和感を感じて通報でもしていただろう。しかし、隣人の誰しもがチップを体内に埋め込み、泣き声をノイズとして排除していたに違いない。明らかなやっかいごとに、足を踏み入れるものなどいないのだ。

「仕方がないこと。分かってくれよ」

 坊やは、ベビーベッドの中で動く気配はなかった。数ヶ月も前には冷えて、かたくなっていたことだろう。両親と、産まれたこの時代と、そうさせたその他のことを恨みながら……。

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