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短編小説 喫煙室の幸運 (2370字)

渡り廊下から青い空を見上げる。
近くの換気扇からモヤモヤっとした弱い白い煙が出ている。
二三歩進むと、三キロ程先に見える火葬場の煙突と換気扇の視点が重なる。
それは火葬場の煙に吸収され一つになり昇っていく。

山裾に墓標の様に起立する二つのビルがある。
それは普通病棟A、緩和ケア病棟Bから成る成仏寺総合病院である。
A棟B棟をつなぐ渡り廊下があり、そのB棟脇にプレハブの喫煙室がある。
この病院では、緩和病棟の患者さんに限って喫煙が許されている。
喫煙許可の理由は、最後が近いから、好きなようにして良いと言う事よりも精神的に落ち着くからと言う事らしい。
こういう話をすると、患者さんの大多数が喫煙する様だが違う。
大多数は、喫煙習慣があっても喫煙はしない、我慢をする。
誰しもが最後が近くなっても、少しでも長く生きたいのである。
それは人としての本能のである。
一方少数派の好きな事をして最期をむかえたいと言う無頼派の人達もいる。
喫煙室はそんな人達の施設なのだ。
後期高齢者の田辺博は、緩和病棟に転院してすぐ喫煙室にやって来た。
喫煙室の引き戸を開けると正面に赤いバケツがあり水に浸された吸い殻が小山になっていた。
右手に目を向けると正面に窓があり中央の通路にスタンド型の灰皿が二つあり、左右対象に椅子が三脚ずつあり、右手の奥では換気扇が回っていた。
入り口近くに椅子は無く、この空間は車椅子用だと想像できた。
田辺は、誰もいない喫煙室の右手奥の席に座り
ハイライトを咥えゆらゆらと紫煙を上げ始めた。
田辺は思う。
とうとう、喫煙に文句を言われない。
勝手にしろと見放されるところまで来てしまった。
揺れる紫煙を見ながら、息を深く吸い煙を吐き出した。
「ああ、旨いなー」
と田辺が口にすると
「旦那さん、そこ、私の席よ、どいてください」
ガラガラ声で気の強そうなアフロウィックの老婦人が前に立っていた。
田辺は気分を害したが、新入りで此処の事情は知らない、
黙って、隣の席に移った。
老婦人がすぐに座って来たので、
空き席を作り、もう一つ隣に移った。
老婦人はいらいらしながら、セーラムスリムを取り出し一本吸い始めた。
深く呼吸し唇を尖がらせて、すーと煙を吐き出すと、
老婦人の肩が落ち、急に弛緩した。足の振戦も止まった。

回診が終わったのか、続けて三人の高齢患者が入って来た。
その一人が田辺の隣つまり老婦人の隣に座り
田辺に会釈しセブンスターに火を点けた。
他の二人は対面に座り争うようにタバコに火を点けた。
田辺が隣の男に話しかけた。
「今日転院してきたもんで、よろしくお願いします」
「ああ、此処は一カ月で入れ替わるから、気にしなくて良いですよ」
田辺は余計な事を言ってしまったと思った。
此処は病院の終点。一カ月で決着が着く、つまり死ぬのだ。
二本タバコを吸った老婦人が、にこやかに出て行った。
隣の男が、老婦人が立つと、早業で老婦人の席に移った。
田辺はゆっくり席を立ち病室に向かい思った。

緩和病棟の患者は末期で、そのほとんどが癌だ。
此処では病気自慢の会話は無い。
お互いに深入りしないのが暗黙のルールなのかもしれない。
しかし田辺にとって自由に喫煙が出来る事は有難かった。
一瞬でも気分が、まぎれた。
翌日昼食後の一服に田辺が喫煙室に入ると、
奥の席で、昨日の老婦人と背の高い老人が言い争いをしていた。
それを四、五人の男が遠巻きに、諌めるでもなく、見ていた。
どうやら、背の高い老人が、先に奥の席に座っていたのだが、
トイレに行くので、席にタバコと、すぐ戻りますのメモを置き席を確保していたのだが、戻ると奥の席に老婦人が座っていた。
隣にタバコとメモがあり、席の取り合いで、ケンカに成っている様なのだ。
誰かが仲裁に入れば済むと思うのだが、
どうも、みんな背の高い老人を応援している様だ。
結局、老婦人はタバコ二本を吸って去って行った。
すぐさま、背の高い老人が座り、タバコを吹かし去って行った。
その後も次々と奥の席に座ってから出て行くような気がした。
夕方の事だ。田辺が喫煙室に入ると、若いパートさんが二人、
清掃作業をしながら、話していた。
「また、ケンカしたんだって」
「また、奥の椅子の取り合いなの」
「背の高い人と、お婆さんなの」
「いくら、運のいい席だってね、ケンカする?」
「このあいだは、椅子を撫でてたわ」
田辺は清掃のパートさんに、経緯を尋ねた。
どうやら、奥の席はメチャクチャ運のいい席で、
此処に長く座れば、生きて退院出来る、
と言う、噂話が流布される様になり。
実際生きて退院する人が多いと言うのである。

田辺は思った。
やっばり、みんな生きていたいのだ。
タバコを止めないで、身勝手な気がするが
可能性があれば、しがみつく。それが人情だ。
バタバタと力尽きていく、この陰気臭い病棟で、
タバコを吸いながら、生きて退院出来るなんて、
なんて、素敵なんだ。
誰が考えたのだ。
嫌煙家は、身勝手な奴らだと、見下すだろうが、
神様も運命も虚ろいやすい。
人は結末に常に受け身で、それを肯定するしかない。
もし本当ならば、神様の悪戯かもしれない、
と思わず苦笑してしまった。
田辺は清掃するパートさんの作業を見ていて、おやっと思った。
六脚の椅子を一ヶ所に集め床を拭き、椅子を戻す。
椅子は元の位置に戻っていないのだ、バラバラだ。
と言う事は、幸運をもたらすのは、椅子ではなく、位置か。
しかし、そんなことは、どうでもいい、幸運を信じる事が大事なのだ。

一カ月が過ぎた。

喫煙室の顔ぶれも変わった。
変わらないのは、
愛煙家が、縁起を担ぎ争うように奪い合う右端の椅子だ。

この日、煙の無い火葬場の煙突は暇そうに突っ立ていた。
神様の心は、わからない。
後期高齢者田辺博は、生きて退院した。
あの老婦人と背の高い老人が無事に退院したかは知らない。

                           終。


















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