0ドルのナポリタン
✻ ✻ ✻
レジをそっと開ける。
大丈夫。
この古びた映画館でバイトを始め、もう半年。
シフトを入れ続けた樹(いつき)に、
レジの扱いは慣れたものだった。
閉館間際の映画館。樹のほかに人はいない。
雇い主のおじいさんは、うたた寝をしている。
ちくりとした胸の痛みを振り切るように
1万円札に手をかけた
その時。
「おい」と声がした。
樹は、「ひっ」と声を上げ周りを見渡した。
人影はやはりない。
再び声。
「それはやっちゃいけないんじゃないかい」
聞き覚えのあるハスキーな女性の声だった。
その女性が思い当たり樹が信じられない気持ちで
いっぱいになった時、辺りは光に包まれた。
気がつくと樹はレストランにいた。
世界で有名な《 架空 》のレストラン。
目の前で色がなくなっている。比喩ではなく世界が全部モノクロ化している。
間違いない、ここは、あの映画の中だ。
「なんで、金なんか盗もうとした?」
声の主が机に腰掛けながら聞いてくる。
「ラ、ライリー……」
「ん、私の名前を知っているのかい?」
「知ってるも何も……」
樹はごもごもと呟いた。
映画〖0ドルのレストラン〗は有名なモノクロ映画だ。
街の外れのレストランを1人で切り盛りする、
ハンサムなライリーという女性。
レストランに訪れる客は悩みを抱えているのだが、ライリーの出す料理に救われ、次の1歩を
踏み出す。
樹も幾度なく、この作品を上演してきた。
まさか、なんで、自分が、このレストランに?
「少年、名前は?」
「樹、です」
「樹。金を盗むことは犯罪を犯すことだ。
犯罪をしてまで、樹にはしたいことがあるのか?」
「それは…」
俯いた樹には、ライリーはそばかすだらけの頬を
ふっと緩めた。
「ま、いいや。私には関係ないことだ。それより、何か食べてくだろ? 待ってな」
目の前に置かれたのはナポリタンだった。
玉ねぎもピーマンもない、ソーセージだけの
ナポリタン。
「これって」
思わずライリーを見たがライリーは何食わぬ顔で
ホットコーヒーを飲んでいる。
樹はおずおずフォークを手に取った。
1口。また、1口。
もぐもぐと咀嚼するたびに、樹の視界は涙で歪んでいった。
ふと蘇る(よみがえる)のは、狭い台所に立つ母の背中だ。
「樹。今日もナポリタンでごめんね。 その代わりソーセージたくさん入れるからね。
樹、ソーセージ好きでしょう?」
「……酸っぱい」
「ああ、ケチャップをいっぱいいれてんだ」
母と同じ味だった。
ケチャップでパスタがベチャッとしてるのとか、
ソーセージがまるまる入っているのとか。
「酷いことを言ったんです、母に」
「ふーん」
「そんなの食べたくないって。ナポリタン作るくらいなら小遣いを増やしてくれって。
母が頑張っているのは知っているのに。
周りの友達についていけないのが怖くて、バイトしても、父親がいない貧乏なうちじゃ服装も食べ物も………」
「……………」
「だから、バイト先でお金を盗もうとしたんです」
「樹、ナポリタンうまいだろう?」
「……美味しいです」
「隠し味に、愛情がつまっているんだ」
はっとして、思わずナポリタンを見つめると、
モノクロの世界のなか、そこだけ鮮やかな朱に
色づいていた。
「お金が大切なのはわかる。でも、それよりも悲しませちゃいけない人のことを考えていたい。
お金で繋がる友情よりも、ただ相手を思う愛情の方がいい。 私は綺麗事の方が好きなんだ」
「……………」
「今日のナポリタンは0ドルだよ。
私はこの世界が綺麗事でいっぱいになればいいと思っているんだ」
ライリーがにっと笑ったあと、
ナポリタンから色が広がり始めた。
閉館のベルの音が聞こえ、
樹は色のある映画館に戻ってきていた。
なんで映画の中に入ってしまったのか。
そんなことわからない。
ライリーが救ってくれた、
という事実だけで充分だ。
綺麗事かな、
樹はそう思いながらレジを閉めた。
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