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*22 ウラシマタロウ

 結局土曜の晩にあった親睦会で飲んだ酒は月曜日になっても私を苦しめ続けた。大方の場合、二日酔いと言う名の通り翌日にゆっくり休んだらすっかり良くなったのだが今度ばかりはそうもいかなかった。これを先日重ねた年齢の所為せいにすれば大凡世間は頷いて受け入れてくれるのだろうが、生憎この時の私は親睦会で飲み過ぎたウーゾ※1という強い酒の所為だと心固かった。日曜もまだ腹の底から上がって来たアニス※2の香りがどうにも恨めしかった。その上昼間には備え付けの暖房が点かないこの時期の部屋は、体温調節の利かなくなった体を普段以上に縮こまらせたので、それで月曜になっても優れなかった体調に風邪か或いは流行病はやりやまいの影すら見た私は、心身襤褸ボロになりながら重労働を片付けて帰宅すると湯船にわざわざ湯を溜めて浸かり、職場から持って帰って来たパンを齧ると念の為に風邪薬を呑んで直ぐに体を倒し布団に包まった。それでようやく復調した私は、慣れない強い酒、殊更このウーゾという酒はまあしばらく飲むまいと心に誓った。

 
 火曜日になって溌溂はつらつと出勤した私は何の言い訳か恥ずかしげもなく「いやいやしかし昨日迄すっかり酒で具合を悪くしていたが、よく休んだお陰で快復してようやく本調子だ、ははは」と作業中にルーカスに説明すると「ウーゾが効いたか」と彼の方でも直ぐに理解して笑った。それから見習い生のマリオには「君に良い知らせがある」とわざわざ枕詞を置いた後「具合の方が快復してすこぶる快活だから今日の仕事は捗るよ」と己のみなぎる活力を示すと、「それだけ元気なら二時間くらい残業しても何てことないね」と彼の方でも巫山戯ふざけて来たので「反対だ、二時間早く帰れるんだ」と私は後を継いだ。私は彼のその発言を冗談と思いそれぎりにしておいたのであるが、結局その日彼は実際に二時間近く残業したんだと、翌日になって呆れ果てた製菓職人のアンナから聞いた。
 
 
 残業に大変厳しいこの職場の風紀を流石に理解している私は、連日定時に間に合うよう大急ぎで働いている。例え俯瞰で見た時に作業量の偏りが物凄くとも、一人汗をだらだらと流して動き回るくらいの意地は持っているのである。その日も例によって自分の定時になる迄にマリオと共に作業を迅速に片付けた私は、主に工房の掃除である彼の作業の最終確認をして職場を後にした。アンナの言うには、何でも私が帰るなり彼の作業が鈍々のろのろとし始め、挙句に遅くまで残業をする始末だったのが気に入らないらしかった。そしてまた私に言うを皮切りに方々で不満げな声を振り撒くと、更に彼の掃除そのものも全く行き届いていないという二つ目の問題点まで浮かび上がった。そうしてその内本人を捕まえると皆で寄ってたかって注意をしていた。それを脇目に見ていた私は、人間の持つ習性の内で最も醜いものはこれに違いないと一人手元の作業を進めていた。
 
 彼の勤務態度に問題があったのなら一人がそれを注意したら良かろう。わざわざ皆で顔を赤くしてまで大袈裟に扱うような事柄には思えなかったという私の私見は脇に置いておくにしても、問題を引き起こした弱い立場の人間を数人で囲んでは正義だか教育だかの名目で裏でも表でも責め立てるというヒトの生態を、私は子供の頃から美しいと思えなかった。万が一自分がそれに加担した姿を想像すると余りに田舎ださく羞恥千万であるが、ヒトとして未熟な児童の間でその生態が見られるのはまだ解るにしても、成熟した大人が何の恥じらいも無く堂々と弱者を囲うというのは最早醜態のように思えた。とは言え私も同僚をその一件のみで頭ごなしに一蹴するほど馬鹿ではない。同僚に対して微塵の嫌悪を抱く理由にもならなかった。あくまでもこれはヒトの生態でありそこには善人も悪人も無いわけであるから、私が個人をさばく基準には成り得ないのである。しかし哀しい。とは言え私も、注意された事に関してはこの工房において問題なのであるからマリオも真摯に受け止めなければならないと思うし、私自身彼の不注意や嘘や杜撰ずさんな仕事が見えた場合、何でも彼でも見逃して優しい言葉で撫でるだけの指紋の付かない過保護とは違い、その都度、時として厳しく注意する男であるから、竜宮城に連れて行って貰える資格も別段無いのである。

 しかながらそうした見習い生の残業問題を耳にすると、その責任の在処ありかが私にあるようにも思えてならないのが実際の胸の内であった。実際に耳に聞こえてくる声の向こう側で私の管理不行が問われているという可能性を俄かに発見した時、どうにも遣る瀬の無い溜息が頻りに口から漏れるのが分かった。自分の持ち場には責任を持ちつつも管轄外の作業には俄然無関心で居続けられる同僚が残した仕事と、見習い生が定時で帰るという理想から逆算して済ましておかねばならない仕事と、それからはなから私の分とされている仕事とに囲われた私は、その上でそれらを己の定時迄に済ませよという並々ならぬ重圧を背負って動かねばならないのであるからまるで亀である。

 
 金曜日の仕事は比較的少ないのが常であった。それだからその分念入りに工房の掃除をするというのが皆の認識としてあった。然し今週私は幾つかペストリーを金曜にも作る必要があった。これはあらかじめ私とルーカスで相談して決めた事であったから予定通りであった。ところが仕事の途中になってシェフが何処からともなく姿を現すと、クッヒャ※3ルも君がやらないといけないよと突拍子もろくな説明も無いままそれだけ言い残すと、また工房を出て行ってしまった。
 
 直々に私が言われたもんだから、皆の認識においてもクッヒャルは私の仕事である。仕事が増える分には一向に構わない、仕事は仕事である。然しそれなら前日にでも一言私に言っておいてくれさえすれば計画に組み込めたのに、こうも突発的に仕事が増やされたのでは余分な手間が増えるというものである。手で生地を平たく丸く伸ばし、フライヤーを準備し、それを順次揚げていくのが順調にこなせたにしろその分の時間は時間である。時間は無限であるという勘違いが仮にあったにしても私の身の数に限りが有る事などは論じるのも馬鹿らしい。
 
 皆でプレッツェルを成形している間、私はプレッツェルを作る作業台とクッヒャルを揚げるフライヤーをせわしく往来した。そうしてプレッツェルが片付くと今度は店頭から販売婦が工房へ顔を出して、あれを幾つとこれを幾つ追加で焼いてくれと注文があったから私が請け負った。見習い生の手が空いて来ると彼を休憩に送り出し、私は工房に残ってクッヒャルを揚げた。ペストリーは見習い生と二人で作るにしても、またシータ※4ーとフライヤーを激しく往来する必要があった私であるから、ペストリーはマリオを主体に進めざるを得なかったが無論見習い生の彼に安心して任せられる筈も無く、かと思えば店頭からは更なる追加注文が入り、見習い生の元とフライヤーと発酵室と店頭とをばたばたと巡回した私は、愈々背負った残業に対する重圧の甲羅は脱ぎ捨て身を軽くせねば遣り切れなかった。少々烏滸おこがましいが仮に私が不在であったとすると誰を代役に立てても順風満帆に万事熟されていたとは到底思えなかった。とは言えこれを適材適所と括り上げてしまっては我ながら余りに不憫である。幾星霜私は報われる日が来るものと信じて万事笑い飛ばして来たがどうも今では無さそうである。
 
 
 土曜日に休みの入っていた私は、息付く間も無く汗に塗れた一週間を振り返ると共にその終焉に安堵し「助かった」と店頭のオーブンで最後の追加注文分が焼き上がるのを待ちながら中年の販売婦達に零した。工房の様子を殆ど知らない彼女達が「ウーゾなら冷蔵庫にあるよ」と私の患った二日酔いをつついては笑っていたから「いやいやもう勘弁だよ」とへらへらと答え、代わりにエスプレッソを貰って一口に飲み干した。そうして最後の製品が焼き上がると販売婦の一人はすこぶる快活に、まるで私の流した汗を労う積の無い「Du bist beste Mann君は最高だ」と言ういい加減な褒め言葉と共に親指を立てて私に向けて来たが、この日の私にとってはそれくらい温度差のある店頭がさながら竜宮城であるかのように息を付けた。
 


(※1)ウーゾ:ギリシャのアニスを使用した無色透明の蒸留酒。
(※2)アニス:ギリシャの香辛料の一種。
(※3)クッヒャルKücherl:円盤型のドイツ式揚げドーナツ。
(※4)シーター:生地を伸す機械。

※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。
 


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