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*20 Ernte Dank

 オクトーバーフェストとは名ばかりで、実際九月の十七日に始まった催事は十月の四日には幕を閉じると言うんだからほとんどセプテンバーフェストである。という十人いれば十一人は考え付きそうな妙を突っついてみたが、結局今年私は現地に出向かなかった。ミュンヘンに居た頃は平日の仕事終わりにでも会場へ出向いて昼からビールを煽れたが、現地まで電車で二時間も掛かるとなると都合が付かなかった。先日ミュンヘンに住む友人を訪れた際、折角二年振りに開催されるんだから機会を見付けて是非来たいと思っている、と伝えてはいたものの実際問題そう容易たやすくはなかった。
 
 ミュンヘンに暮らしていたおよそ五年の間、何だかんだ言いながらも結局毎年一度はオクトーバーフェストを訪れていた私であったが、かと言ってオクトーバーフェストを好んでいると言うわけでもなかった。むしろ辟易としていたくらいである。楽隊の演奏と人で溢れ返るテントの賑やかな雰囲気に包まれ、その中で友人と、また隣の他人と乾杯しながら飲むビールはすこぶる楽しく好きである。しかながらそこへ辿り着く迄の苦労がその内私には厄介に思えてならなくなった。醸造所が構えるテントは何処も彼処かしこも大体満席超過で、警備員の合図が出る迄内には入れず外で待たねばならぬのが常なのであるが、その回転率たるや言わずもがな低い。そもそも相手は多勢の多国籍の酔っ払いである。レストランの様に几帳きちんと客を管理出来るとも思えない。それでも辛抱強く待ったのち何とかテントの中に入れたにしても、今度は広大な人波の中に空席を見付けなければならない。立ち飲みでも構わない、と大人気に妥協を示した所で、給仕は席に着いていない者には目もくれず九も十もあるビールジョッキを抱えては救急車の如く人混みをすいすいテント内を飛び回る。すなわちビールにあり付くにはまず席を確保せねば注文すら出来ないのである。几帳面なることレストランの如しである。それだけの格闘も始めの頃は越えられたが、幾度も繰り返す内にすっかりメリットを上回ってしまった。オクトーバーフェストの華やかな面は今日日きょうび世界中何処に住む者にも知れ渡っているが、物事は何でも明と暗で成り立っているというのは肝に銘じておかねばなるまい。それでも今年は行きたいと考えていたのは無論二年振りの賑やかな雰囲気というメリットがデメリットを上回っていたからであったが、それ以外の所に問題があった。
 
 
 さてすっかり秋である。気温もぐんと下がった。只でさえ冷える借りて一年と経つこの部屋はつい先日まで暖房も点かず、私も私で部屋の中で長ズボンを履く習慣が無かった御陰で随分凍えていたが、今週になって暖房が点くようになったので私はほっとしオンの字を押した。季節の変わり目と言ったって限度がある。こうも急ハンドルを切るようでは、案の定私の職場でも近頃あちこちから咳が聞こえている始末である。夏は短いが秋もまた早く過ぎるドイツでは、半袖シャツと外套コートさえあれば一年を遣り繰りしてしまえるのだろう。気温が下がるや否やラジオではクリスマスソングが流れ、スーパーではシュトレンが売られているんだから小さい秋を見付けて喜ぶ日本の奥床しき精神メンタリティなど何処吹く風、風情も無勢、少々粗野である。
 
 
 シャツから外套コート衣替きがえる間を割ってるが如く秋が己の存在を主張する場面シーンが今週工房の中で見られた。エアンテ・ダンク・Ernte-Dank-Brotブロートであった。エアンテとは穀物の収穫を表し、ダンクは有難うという意味のダンケDankeと一緒であるから、要するに収穫を祝う意味を持たせたパンの事なのであるが、それが今週特別、教会での収穫祭の為に大量に作られた。

 金曜日に休みの入っていた私が土曜日に出勤すると、前日に焼かれたと思われる大量のパンが木板の棚に並べられており、その横を通って更衣室に入り着替えを済ませ工房に入ると、見慣れない材料が計量台の上に準備されていた。これがエアンテ・ダンク・ブロートかと私は直ぐに察した。
 
 特別な名前こそついているが、取り立てて珍しい材料が入るでもなく、小麦粉とライ麦粉の合わさった生地に南瓜かぼちゃの種や大麦や胡麻など様々な種子穀物が入るだけのシンプルなパンであった。特別だった点はその作られる量であった。不断ふだんの仕事に加えて三〇〇個もの大型パンを作る必要があったわけであるから仕事量としてはとても小さい秋とは呼べなかった。ベッカライ・クラインでは本来、土曜日は仕事量が比較的少なくその分早めに帰れるという前提があったから、アンドレは「わざわざ土曜日に焼く量じゃない」と小言を零していたが、結局その三〇〇の大型パンを丸めたのは私で、彼は生地を六〇〇グラムに量っていくだけの役割だったんだから実際の労力は私の方が要った。然し近頃見習い生の面倒を見る都合上、大型パンを丸める分担に入る事の無いでいた私は、久しく触っていなかった大型パンの生地を丸めていく作業が楽しく、彼の零した小言を拾うには拾ったがまるで温度感が異なり、トスで三回繋ぐ前に勢いに任せはしゃいでスパイクを彼の足元に打ち込んでしまった。そうこうしながらエアンテ・ダンク・ブロートを片付けると「今日は長い日になった」と疲弊したアンドレと二人で労い合い、私よりも先に出勤していた彼を見送って私は掃除に取り掛かった。
 
 暫くしてシェフも工房に顔を出した。オーブンの中ですすが付いてしまって売り物にならなくなった一つをシェフから受け取ると、それからエアンテ・ダンク・ブロートについて話を聞いた。どうもベッカライ・クラインでは十年程前から毎年この時期になると、収穫祭を行う町中の教会の為に焼いているらしかった。そして「来年になれば新しい工房で分割の機械もあるからもっと早く済む筈だ」と言って二人で目を輝かせると、良い週末をと挨拶をしてシェフを見送った。

 週末になってこんな遣取やりとりがあったから救われたような気がして休みに入れたが、今週の私は同僚とのコミュニケーションという点において終始調子が悪かった。調子が悪いなどと言うと、己の語学力は十分だが他の所にある何かしらの原因で以て饒舌を妨害されているという慢心な言い分の様であるがそうではなく、先週は何を言われても返す言葉は冴えていて、おまけに仕事もスムーズに熟せていたというのがあった分、余計に今週は酷く感ぜられて、気にすれば気にするほど猶更言葉は詰まって出て来なかった。単なる挨拶にしても、である。挙句、そんな時もあるだろうと割り切ろうとする頭に、結局君は周囲の為ではなく自分の事ばかり考えているんじゃないかと心が疑問を投げ掛けた。頭と心が何遍も質疑応答を繰り返すもんだからすっかり疲れてしまった私は、木曜日の仕事を終え翌日に休みを控えた晩、何も手に付きそうにないからと、読み掛けてあった敬愛する文豪※1の小説を読み始めると、結局夕方から深夜になるまで疲れた頭を物語の深くまでどっぷりとしずめていた。そして未完の結末迄の一〇〇ページ程を一気に読み切った時、頭加之のみならず心まですっかり癒えている事に気が付いた。物語の舞台が温泉場で無かったにしても屹度きっと私は湯に身を委ねたと同じ心持で小説を閉じていたに違いなかった。果たして私は彼の作品の中に自分の安寧と憩癒いこいの場を再発見した様な気がした。読書の秋とは言うが、木になっていた未完の小説の内に発見した、私の心を落ち着かせる暖かなだいだいの灯で照らされた居場所も立派な秋の収穫と呼ぶならば、それで心の安寧を得られた私からすればまさしくエアンテ・ダンクであるからビールで祝うのが筋であろう。オクトーバーフェストも元来収穫祭である。



(※1)敬愛する文豪の小説:夏目漱石『明暗』のこと。

※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。

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