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*14 アーティスト≠アーティザン

 ポルターアー※1ベントで有意義な時間を過ごした後の二日間は家にいた。月曜日が祝日であったからミュンヘンに住む友人と出掛けようという話になっていたのであるが、彼の妹が入院をしたとか何とかで急遽イタリアに行かなければいけなくなったという連絡が土曜日の内に届いて予定は無くなった。私は、何も気にする事はない、家族の方が重要に決まっているといった文面を彼に送信するとともに、万が一私の親族に同様の緊急事態が起こった時、イタリアを母国とする彼の様に機敏に動く事が難しい現実を危惧せざるを得なかった。日本へ一時帰国をした先月は幸いに皆達者な様子で顔を合わせる事が出来たが、予期せぬところから死の槍が降って来て命を貫く事が何処に起こらないとも限らないという確率論的現実を先日私は身近なところに見てしまったが故に、考えだすと心配は尽きず肝のぬくまる事は無いのであるが、反対にそうした酷槍こくそうが私の身に降り注ぐ場合も同様に無いと断言出来ない筈であるから、先ずは何より我が身の健幸けんこうを案ずるより他に私に出来る事は無いのを改めて悟った。己の存在が無い場合にも他人ひととの再会は果たせないという側面をどうしても私達は忘れがちである。
 
 
 そうして空いた祝日には結局プレッツェルを焼いた。注文しておいたラオゲ※2液が先週の内に届いていたのでそれを早速試してみたかったのである。ラオゲ水溶液を作る為に説明書せつめいがきを読んで計算すると、結局十五ミリリットルしかラオゲの原液を必要としなかったから、私は改めて一リットルの瓶を手に取り眺めながら、そんな事ならシェフに申し出て職場の十リットルほどある原液からほんの少量を拝借したら良かったと己に憫笑びんしょうを向けたが、まあそれでも道具や材料を自分で所有するという浪漫もあった以上、必要以上に後悔に似た感情を増幅させることはしなかった。

 プレッツェルは綺麗に焼けた。プレッツェルに関して言えば特徴的な形と焼き色が屡々しばしばネックとされるのみで、実際八年もドイツでパンに触れている人間からしたら発酵も焼成も何も難しい事の無い比較的容易なパンであるから、この度ラオゲ液を購入してようやく自室で焼くに至った。それでは何を持って堂々と「綺麗に焼けた」などと万感げだったかと言えば、自室と工房とにおける成形したプレッツェルの相対的な見え方にあった。職場では毎日五百個近くのプレッツェルが作られる。成形されたプレッツェルは布を敷いた天板にブレッヒ:※3二十五個ずつ並べられるのであるが、片や自室で作った場合には精々五個も並べれば沢山であった。すると二十五個が並んでいる場合には目や脳が捉えなかった、或いは多少気になっていても見て見ぬふりで遣り過ごしていた微々たる違和感が、たった五個並んでいる場合には己の美意識を刺戟しげきして仕方が無かった。どうしても理想的な形には見えなかった。また成形した直後には美しかった筈のプレッツェルが、次の一つを横に並べた時には既に美しさを損なっているように見えた。失敗や手抜きや粗雑さとは一線を画した、美的なバランスがなかなか単簡には腑に落ちず、ちょんちょんと触ってはバランスを整える作業が余分に必要になった。或いは必要である様な気が、職場にいる場合よりも起こりやすかった。
 
 かつて私は、パンは芸術品ではなくまでも命を構成する歴史深い食物しょくもつであるという持論を何処かに述べた事があった。またそれがパンの持つ最大の魅力であるという事も同時に意見した。すると一見、私がプレッツェルの美的なバランスにこだわる事は信念の矛盾に思われてしまうかも知れないが、ここで言う私の美的とは既存の完成形に対するその再現度、ないし精度の事である。既存の完成形をそのパンの持つ最上最美の姿であるとした場合に、如何にしてその完成形に近い精度を己の手で生み出せるかと言う職人的美意識であり、創作や感性を用いた芸術的美意識とはまた違った美しさの追求である。そういう観点で焼き上がったプレッツェルを見た時に、安堵の思いから綺麗に焼き上がった姿に胸を撫で下ろしたのである。また購入したラオゲ液も正確に機能しているようでそれも安心した。

 しかしこうした美意識を他人に伝えるのは大変難しい。作業や仕組みの説明の様にはなかなかいかない。ベッカライ・クラインで十六歳の見習い生の面倒を見ている私は、自分が仕込んだ生地や仕上げたパンを見てはその出来が良いと「Schön美しい」と自画自賛し満悦気に呟く癖があった。決して冗談の意でいうわけではないが、実社会においては一々仕事美に酔ったりせず単に仕事として処理していく人間も大勢いる事実を理解している私は、少々冗談らしい調子で呟き、またそれに対する他者の反応リアクションには別段期待しなかった。そんな私が、今週は見習い生のマリオにツヴェッチゲン※4ダッチを仕上げさせ、またそれを監督した。週も暮れ始めた頃、彼に一人で完成させるように任せ、出来たら見せなさいとして私は私で仕事をしていた時があった。しばらくして彼が私の元に来たので彼が仕上げたツヴェッチゲンダッチを見ると、手順や要領は正しく把握出来ていたものの、その完成形は余り美しい出来ではなかった。それを私は説明しながら自分で手直しをして見せたのであるが、「こうした方が美しい」という大変抽象的で感覚的な説明しかする事が出来なかった。万が一具体的で論理的な説明や理由を求められていたとしたら、私は狼狽を避けられなかったに違いない。ただしかし私はそれもまた職人を職人たらしめる部分である様にも思えたのは、それが即ち机上ではなく現場でしか知る事の出来ない領域の相伝の現場であったからである。これが所謂見て盗むという教えの指す所であり、職人的美意識もこれに属する類である。
 
 また今週は時に、私が生地を分割計量していると中途半端な量の生地が余ったので、マリオを呼びつけると私の独断で三本編みのツォプ※5フの実演をして見せた。そうしてそれを発酵させ、焼く直前には発酵した生地を実際に触らせ、空いているオーブンに入れて焼き上げるとそのまま持って帰らせた。この際にも幾度と無く「Schön、Schönシューン、シューン」と言っていたが、やはり発酵の加減も焼き具合も詰まる所美しいか美しくないかという感覚的な作業であり、こればかりは習うより慣れるより他に無いのである。美しい生地を捏ね、美しい成形をし、美しい発酵を済ませ、美しい焼き色を付けたら美しいパンが出来上がると言うのが実際の原理である。
 
 
 仕事を終え家に帰ってから私は経理業務の勉強に精を出した。マイスター試験における経営学部門の時に味わった不完全燃焼を黙って遣り過ごせなかった私が日本から買ってきた教科書も二冊目に入っていた。読んで行くと当時学んだ事柄が薄くも脳内に蘇って来た。しかし日本語で書かれた教科書であるとは言え、読み方の分からない熟語や初めて見る専門用語、聞いた事はあるが正しく意味を理解していない言葉が沢山出て来て喘ぐと同時に、去年はこれらの内容を初見でつ方言の強いドイツ語で挑んでいたのかと思うと、身の程知らずとか無鉄砲とかとても褒め言葉にならない言葉で形容するより他に無く、過去を思い返すというより他人の話を想像するような感覚で頭に浮かべて眩暈がした。美しさとは無縁の領域、見て盗んではカンニングになる領域において私は机の前で教科書と睨め合いながら腕を組んでいる。プレッツェルの如し。


 


(※1)ポルターアーベントPolterabend:ドイツの伝統的な婚礼行事。参照記事1参照記事2
(※2)ラオゲ液Natronlauge:プレッツェルの独特な焼き色を付ける為の劇薬。水酸化ナトリウム。
(※3)ブレッヒ:Blech。ドイツ語で天板を指す。
(※4)ツヴェッチゲンダッチZwetschgendachi:セイヨウスモモを使ったパン生地ケーキ。
(※5)ツォプフZopf/Zöpfe:編みパンの事。ここでは三つ編みのパン。

※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。


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