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ドイツパン修行録~マイスター学校編~

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製パン経験の全く無かった元宮大工の男がパンの本場ドイツに渡り、国家資格である製パンマイスターを目指す物語のマイスター学校編。 田舎町に移り住み、通い始めたマイスター学校。真っ新な…
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#挑戦

*39 才能なんかいらない

 試験前最後の日曜日の早朝、悪夢に魘されて目を覚ました。遅刻をする夢などは子供の頃から何か重要な行事がある度に見てきたのだが、今度は試験が始まるやいなや気を失って机に伏せたまま試験を終え、それで取り返しの付かない事をしてしまったと心臓を動悸々々とさせていた。目を覚まし、それが夢だと判ると安堵の溜め息を漏らしたが、体はまだふわふわとしている様であった。四時前の事であった。  試験を翌日に控えた日曜日の夕方頃になって、突如気持ちが猛烈に不安定になった。計算問題を復習していても数

*1 年末年始とパン職人

 どうして日本人はクリスマスにケンタッキーを食べるんだ、という質問がシモンから投げ掛けられてくると、これがクリスマスシーズンを迎えた合図である。五十手前の彼は仕事以外の時間を全て雑誌やらテレビやらに費やしているんだか、スマートフォンが苦手なわりに物知りな男である。日本人がケンタッキーをクリスマスに食うという話も雑誌だかテレビだかで特集されていたようで、5年前にその真偽を問われて以来、毎年恒例にその疑問が彼の中で込み上げてくるのだろう。5年も続けばもはや飽きを越えて冬の風物詩で

*2 パン工房の外で

 コロナウイルスの勢いが留まるところを知らない。週中にいよいよ緊急事態宣言が出されるというニュースが流れたかと思えば、その前日には過去最多の六〇〇〇人もの新規感染者が日本全国で見られたというニュースも入ってきた。  水際対策の強化や二月に予定されているワクチン接種などの尽力を伺える朗報も見られるが、自粛要請に応じない飲食店は店名を公表するというイジメ紛いの手段を恥ずかしげもなく発表してみたり、未だにオリンピック開催へ目を爛々とさせている官僚がいたりと、どうしても拭えない不安と

*5 おわりはじまり

 ドイツに来てから五年間世話になったパン屋をとうとう辞めた。気付けば前職の宮大工であった四年を越え、暦で見てももう肩書はパン職人たるべきはずである。振り返ろうとすると想像以上に文字数が嵩みそうなので、今回ばかりは覚悟を持って読み進めていただきたい。  去年の春頃に企てた時点ではその年の七月まででとっくに辞めているはずだったのだが、言わずもがなその計画を変更せざるを得ない状況を迎え、そうして年の明けたこの一月末に照準を合わせて来た。一日一日指折り数えながら遥か先の事のように思

*8 夢を見るということ

 恋人が搭乗ゲートへ向かい、その背中を見送った瞬間から私達の九〇〇〇㎞に渡る遠距離恋愛が始まった。  フランクフルト(※1)は晴れていた。ミュンヘンの部屋からフランクフルトへ向かう道中で、スーツケースやボストンバックを携えた人をほとんど見掛けなかったので、このご時世、もはや後ろめたさを感じる様であったが、空港に近付くに連れそういった姿がぽつぽつと増えだすと少し安心した。それどころか、空港に入るとトルコ航空のチェックインカウンターには長蛇の列が出来ており、私の恋人同様祖国へ帰

*9 想い出を後にして

 フランクフルト空港から帰ってきた時は隙間だらけで私一人に対し空間を持て余していたアパートの部屋も、日に日にその規模を縮小していると見えて、相対的に自分を小さく見積もる事も少なくなってきた。  一人になると寂しいのは紛う事なき事実であるが、いつまでもおめおめとそんな事ばかり考えていても仕方がない。しかしここで言う寂しさとは、決して愛の欠損によるものに限った話ではなく、時間的余白の中で己に対する遣る瀬無さを感じている事をも指している。世間体を憚らずに言えば所謂ニートとなったの

*10 ニュー・スタート

 陽射しの割に肌寒い初春の候の下を行くにはやや軽過ぎた装いに、心持ち後悔の念を抱きつついた私は、重たい荷物を全身に絡げて乗り込んだ快速列車の中で、結局背中を汗で湿らせながら、六年暮らした街並を車窓から眺めていた。或いは、車窓から街を眺めていたと言うよりも、過ごした六年の記憶を窓に映して眺めていたと言った方が適当かも知れない。兎に角私は三月の一日にミュンヘン(※1)を去ったのである。  ミュンヘンで過ごす最後の日となったその日は朝から仕上げの片付けに追われていたにも拘らず、珍

*12 不安な心は春風を待つ

 最も単簡な言葉で言い表すとすれば、先週末に焼いたパンは満足の出来であった。或いは、こんな可もなく不可もない無難な表現で言い表す外に、適当に装飾出来る言葉が見当たらない程至極平凡で、仮にも製パンに従事する者としては所詮最低点を上回った程度な当然の出来栄えであった。特別輝かしかったわけでもなければ、飛んでもなく酷かったわけでもないのである。  しかし私にとって大切だったのは結果よりも工程にあった。先だって自らを「製パンに従事する者」と謳った矢先であるが、肝心の製パン業から離れ

*38 最終決戦

 正念場である。言ってしまえば今年は春先から絶えず正念場の中を潜り抜けて来たようなものであるが、今週で授業も終わり来週の月曜日に試験を控えた極めて正念場たる正念場を迎えている。終わり良ければ全て良しと言うのであれば、その逆もまた然りの筈である。これは何も結果を言う訳ではない。最後まで挑戦者として毅然たる態度で真摯に立ち向かう事を擲ち、土壇場で膝を震わし怯んでいては背中を押していた応援歌も忽ちブーイングに姿を変え背中にぐさぐさと刺さるに違いないのである。南ドイツの方言や外国人と

*37 佳境

 気付けば彼岸も過ぎた。停留所の人混みの中でこそこそと知らぬ男を探す事も、その間に同じく停留所に佇む美しい女に気を惚られる事も無く過ぎた。そして忽ち十月である。  彼岸はおろか盂蘭盆でさえもう何年と実家に顔を見せていない私であるが、こうして彼岸を頭に浮かべた序でに幼少の頃の墓参りを思い出した。当時は墓を参る理由もそもそも盂蘭盆の実態さえ知らぬまま、只夏休みには御盆と呼ばれる頃に一度、祖父母や両親や姉兄妹について墓を参っては墓石を洗ったり線香を焚いたりするものだと言う認識ばか

*36 ジャグリング

 上を見ろ、上を見ろと人は云う。また、前を向け、前を向けとも人は云う。何かを成すには下を見る隙も後を振り返る暇も無いのだと云う。まるで山頂を目指し断崖絶壁を登りゆく登山家である。所が私の様な世間知らずの臆病者の進む道を比喩えるならば山間に掛かる吊り橋を渡るが如くである。それでも天を仰ぎ橋の向こうを見据える事は同様に重要であるが、時折谷底を覗き込み恐怖心を煽ってはそれから橋を渡り切る為の推進力を捻出したり、ぷらぷらと不安定な足元に怯えた時などは後を振り返り確かにそこまで進んでき

*23.5 結果報告と六月の回想

 ドイツに渡って初めの六ヶ月間語学学校でドイツ語を習い、その最後に満を持して当時の私にはまだまだ敷居の高かったB1レベル(※1)のドイツ語試験を受けたのだが、その際に、やるからには満点を目指す積だ、端から赤点基準さえ越えられれば良いという考えは理解が出来ないという意気込みを何の気無しに会話の流れで他人に話してみたところ、君は完璧主義でナルシストだねと評された事がある。成程、これを人はナルシストと呼ぶのかと、その聞き馴染みの無い表現に感心をしては目から鱗を零していたが、それで言

*23 身の程知らず

 私が一心不乱に勉強を進めていた間に、窓の外の景色はすっかり変わっていた。猫の目の如く忙しなかった天気は過ぎ去り、今度は三十度を越える太陽の光線でもって徹底的に我々を焼き付ける。オーブンや発酵室が稼働する工房の中ともなれば、さらに質の悪い暑さで身を内外から痛めつけてくるのであるが、そう言えば比較的からりとした暑さの夏ばかり経験しているここ数年の私が湿度の高い日本の猛暑の炎天下に放り出されたら、忽ち団扇代わりに白旗でもって暑さを凌ぎそうなものだと考えるに至った所で少々恐ろしくな

*22 フォーエヴァー・ヤング

 私が工業高校を卒業して十八歳で宮大工の会社に入社した時、初めて配属された現場の指導者が二十八歳であったと記憶している。自分より十歳年上だったその人はその年齢差が指し示す通りの、大人として、また現場指導者としての風格や貫禄があった。あれから十年が経ち、今では私が二十八歳であると気が付いた時、果たして今の自分に当時の彼の様な貫禄や風格があるかと自らに問うと、私自身が出した答えは否であった。無論、主観と客観では感じ方が異なる事など重々承知の上である。  これと同じ様な事が二十歳