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*23.5 結果報告と六月の回想

 ドイツに渡って初めの六ヶ月間語学学校でドイツ語を習い、その最後に満を持して当時の私にはまだまだ敷居の高かったB1レベル(※1)のドイツ語試験を受けたのだが、その際に、やるからには満点を目指す積だ、端から赤点基準さえ越えられれば良いという考えは理解が出来ないという意気込みを何の気無しに会話の流れで他人に話してみたところ、君は完璧主義でナルシストだねと評された事がある。成程、これを人はナルシストと呼ぶのかと、その聞き馴染みの無い表現に感心をしては目から鱗を零していたが、それで言うと今の私の内にも相変わらずナルシズムは流れているようである。

 先日のマイスター試験においても自分の中での目標はあくまでも満点合格をする事であった。それが容易でない事などは態々私がここに書き述べる必要の無い程明らかではあるが、例えば赤点基準として中途半端に設定された目標を目指すとした場合に練習量やスピードを上手い事調整しながら走れるほど器用でない私にとって、満点という単純で明快なゴールに向かって全力疾走する方が性に合っているのである。


 六月に入ってから私はラストスパートをかけた。それまでよりもさらに気合を込めて机に向かうようになり、平均睡眠時間もこの期間だけは普段よりも一時間短くなった。それと同じくらい焦燥感に襲われ、ストレスも感じる様になった。

 焦燥感だのストレスだのと言った耳触りの悪い言葉を並べては、勉強が好きなどと言っていた三月の私の言葉や再三仄めかしてきた希望を失ってしまったと思われるかもしれないが、これは全くの的外れである。私の中の希望や向学心は決して薄まる事は無く、ただ焦燥感や弱気という物が以前にも増して肥大化していたというだけに過ぎない。これは必然現象である為、私はそれをもって我が希望の存在を疑う事は無かった。

 


 試験に向けて残った時間を全て勉強に費やせれば良かったのだが、それが一人ではなかなかそうもいかない。試験でパンを飾り付ける際の装飾品などは結局自分で足を動かさなければ勝手に集まってくる事も無いのである。その為に私は一度、隣町のレーゲンスブルクを別件で訪れた際に半日ほど炎天下を駆け回った事があった。住んでいる田舎町では見つからないような物が、栄えた街に行けば見つかるだろうと踏んだのであるが、その分慣れない街を行く為に幾ら地図を頼りにしていても効率の悪いルートで漸く希望のショッピングモールへ出たりして、気付けば半日を要していたという訳であるが、その甲斐あって沢山の戦利品を収集することが出来て一安心であった。帰りの電車の中で、さてノートを開いて勉強を始めようとするも気付けば睡魔に襲われ、そのまますっかり住み慣れた街まで帰って来てしまっていた。

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 それと同じように勉強以外でケーキとオリジナルパンの練習や試作もしなければならなかったので、毎週末にケーキを焼いてはバタークリームを作り、それと並行してサワー種を起こしてはオリジナルパンの試作に励んでいた。毎週末である。

 すると今度は、作るのはいいがさてこれを消費しなくてはならないという課題も出てくるのである。もしも私の身近に友人や家族がいたのであれば、この問題は問題と呼ばれる事なく流れて行っただろう。しかし特に週末は独りであった私は、ホールケーキを自ら食べるしかなかったのである。毎週末である。試験が終わった私を襲った強い解放感の正体は、恐らくケーキを作って食べるというサイクルの終焉に違いない。


 オリジナルパンの試作も最終的に味噌と米に落ち着いたが、それまでに寿司酢やら醤油やらフェンネル(※2)やらを使っては何回も繰り返した。本番に当てたレシピも試験二日前に書き換えており、結局ぶっつけ本番で作るも同然の荒業に出たのである。散々繰り返した試作も水の泡になりかねない愚行であったが、生地はこれまでで最も良い具合であった。それで発酵を済ませ窯入れする直前になって、これまた今まで浮かばなかったアイデアが脳裏に浮かんだかと思うと迷わず表面にナイフを走らせた自分は、試験を終えた私に笑いながらも後悔される事となった。

 これらの練習を家庭用の台所環境で行っていた私は、自らの境遇を、自ら選び取った境遇を些か恨めしく思う事が幾度となくあった。もしも私が以前の職場に所属したままマイスター学校に通っていれば、きっともっと整った環境で練習が出来ていたかもしれない。そして幾らかの収入を得て、もう少し心に金銭的ゆとりを持ちながら生活していたかもしれない。そういった類のたらればが底なしに沸き上がるのである。その度に自分がしてきた選択を一つずつ遡り、それぞれの確固たる理由や根拠を思い出してそれでようやく気分を落ち着けるのであるが、一人でいると勉強の合間でその作業をしなければならずこれも一筋縄ではいかない問題であった。無論これは小心者の私に限った話であるかもしれないが。

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 時間は常にテンポを乱す事無く私と試験との距離を縮め、学校での授業を消化していく。最後の一週間は専ら復習であった。そこで最後の追い込みに相応しい膨大な量の問題を貰い、それを家に帰ってからも繰り返し解いた。またその週に、本番さながらの実技練習が行われた。練習は本番の様になどという月並みな助言の要らない程、私はこれで駄目ならもう後が無いというプレッシャーに食われていた。

 二日に渡った実技練習は実に散々な物であった。試験合格など夢のまた夢に消えてしまいかねない程、私の心のほんの片隅ではひょっとすると僅かに希望が折れていたのかもしれない。いやそれで言うと、マイスター試験を受けようと決心した日の自分の事は少なからず憂いた。君は身の程知らずであると、君には到底無謀な挑戦であるとタイムマシンがあったなら軽率にも私は告げに走っていたに違いない。兎に角試験一週間前にして見事に最後のなけなしの自信をへし折られたのである。

 事前に立てた工程表に従い作業をしている内に、少しずつ理想と現実の時間がずれていっていたにも拘わらず私は健気に、愚直に工程表を守ろうとする余り、無駄な時間を過ごしていた事もあった。それで最後になって時間に追われて、質の滅茶苦茶な商品を作って滑り込みで練習初日を終えた。

 翌二日目は初日の反省を活かそうと、頭から急いで作業を進めていたのだが周囲との調和を乱すが如く、まるで逆走の様な工程で独り進めていたのである。まあそれぞれにやりやすい工程を組んだらそんな事もあるだろうと悠長な見解もあるだろうが、一つの工房で行われる以上、私の身勝手な行動は客観的に見ても厄介であったように思う。それでももう工程を組んでしまっているのだから仕方ないと、見て見ぬふりをしながらゴールへ向けて走っていると、私が発酵室へ運び入れたゼンメル(※3)が一向に膨らんでこないのである。酵母を入れ忘れていたのである。全く初歩的な失態である。練習後に先生が「ドイツではこう言うんだ。練習で失敗するのは幸せな事。これで本番では決して失敗しないから。わはは」と言ってくれたのは救いであったが兎に角不安だけが残る練習であった。


 しかし結果的に先生の言う通り、練習でばたばたと不甲斐ない作業をしていた御蔭か、本番ではまるで別人の様に作業を進めることが出来た。酵母を入れ忘れるなどと言う失敗も無ければ、必要以上に時間に追われる事も無かった。不安要素でしかなかったケーキ類は、今までで最も落ち着いて丁寧に作業を進める事が出来ていたし、デニッシュ生地などの折り込みもこれまでで一番上手くいった。焼き上がりもこの六年間で最も良かったかもしれない。唯一の失敗と言えば、一度材料を量る際にサワー種を量り忘れていた事である。しまったと思いすぐに試験官に伝え生地を作り直し、それでも時間内に終えられたので笑っていられるが、これもまた凡たるミスである。
 


 
 六月二十九日に結果を受け取る為に学校へ行った。大丈夫だろうと思う反面、それでも何となく油断の出来ないような心持になっていた。学校へ着くと何人かのクラスメートがもうすでに来ており、試験の時の話なんかをしていた。

 十五分程廊下で待たされた後、遂に一人ずつ部屋の中に呼ばれ始めた。一人目はものの二十秒で退室してきて、合格だと言って皆から祝福を受けた。そしてまた一人部屋の中へ入って行く。
 
 それを八回繰り返した所で愈々私の順番になった。部屋に入ると四人の試験官が座っておりその正面にまるで証言台につくように立った。最年長と思わしき白髪の男に腹が痛いのかと聞かれ、私がそれまで無意識に腹を摩っていたのを悟った。何となく落ち着かなかったのだろう。それに続けて、早速成績が発表された。


「筆記試験の成績は二、合格だ。」
「実技試験の成績は三、これも合格だ。おめでとう。」(※4)


 さっきまで腹を摩っていた私の手が今度は胸を撫で下ろした。合格である。直ちにフーバー先生に感想を求められたが、ありがとうございますと答える以外に頭が働かず、相変わらず芸の無い男だと思われたに違いない。しかしそんな事はどうでもよかった。

 部屋を出ると自分に注目が集まっているのがわかった。細やかながら固唾を飲むとはこの事かと思う程静かであった。合格した、と言うとどっと場の静寂が消え去り、シュテファン先生に握手がてらおめでとうと言ってもらった。

 全員分の結果が告げられるとクラス一行は階段を下り、工房横の冷蔵室の前に集まった。冷蔵室の中からはビールがケースごと引っ張り出され、各々に配られ皆で乾杯をした。口に注がれたビールは腹の底に染みた。

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 すると、シュテファン先生が会話の流れから皆の前で急に私の事を褒めだした。「彼はドイツに来てまだ六年しか経っていないというのに、外国語で授業を受け、外国語でマイスター試験に合格した。これは素晴らしい、尊敬に値する。」などとビールを片手に言うので、褒められ慣れていない私が恥ずかしがっていると周囲のクラスメートも同意をし始めたので、私は愈々その場から逃げ出したいような気持になった。とは言え、その誉め言葉によってこれまでの全てが報われるようであった。決してこの一言の為に続けた努力では無いが、これを心はずっと欲しがっていたのかもしれないと思った。


 来月、そして十月までに控える残り二つの試験を越えて漸くマイスターを名乗れるわけであるが、この大きな一段落、広い踊り場で少しここまで登って来て乱れた息を整える事にする。



(※1)B1レベル:ドイツ語の程度を表す数値。A1が最も基本で、B1は困難無く日常会話が出来る程度と言われる。
(※2)フェンネル [ Fenchel ]:セリ科のウイキョウ。伝統的なハーブの一つ。
(※3)ゼンメル [ Semmel ]:小型パンの総称。ブロートヒェンとも呼ばれる。
(※4)「...成績は二、...成績は三、...」:ドイツでの成績は六段階。1が最も良く、6が最も悪い。

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