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*10 ニュー・スタート

 陽射しの割に肌寒い初春の候の下を行くにはやや軽過ぎた装いに、心持ち後悔の念を抱きつついた私は、重たい荷物を全身に絡げて乗り込んだ快速列車の中で、結局背中を汗で湿らせながら、六年暮らした街並を車窓から眺めていた。或いは、車窓から街を眺めていたと言うよりも、過ごした六年の記憶を窓に映して眺めていたと言った方が適当かも知れない。兎に角私は三月の一日にミュンヘン(※1)を去ったのである。

 ミュンヘンで過ごす最後の日となったその日は朝から仕上げの片付けに追われていたにも拘らず、珍しくゆったりと遅くまで眠ってしまっていた私は、二度目の睡眠からうつらうつらと目を覚ますと、昼の二時には大家が訪ねて来る事を思い出し急いで飛び起きた。

 片付けと言っても、前日には友人に頼んでほとんどの荷物を次の下宿先に運びきっていたので、残すは食器や掃除道具など不要となった物の処分と、自分の手荷物を完全に拵えるくらいなものであった。この時、布団やら食器やら不要な物を片端からゴミ捨て場に運んでは、思い出と共にそこに置いて来ていたのだが、どうも上の階に住む初老の婦人が私の往来を窓から観察していたらしく、それから私を尋ねて来て、私が処分してきた品を、壊れていないのなら貰ってもいいかと訊いた。私が、別に構わないと了承すると彼女は、もしまだ不要の物がある場合は彼女の部屋の前へ持って来て置いておいてくれと言うから、その後に出た不要物は全て部屋の前へ持って行ってやった。

 ドイツには、不要な物が出た場合はそれらを箱などに入れて玄関前などに置き、差し上げますなどと書いておくと、通行人が各々勝手に持って行くという文化がある。これは実に性善的で素晴らしい文化であり、私自身も先日、同じように不要物を箱に入れて道端に置いておくと次の日には空になっていて改めて感心したばかりであった。しかし、私が人にやるのも憚られるような物を、態々ゴミ捨て場まで運んだにも拘らず、それを観察しては拾い上げて来られるのは気味の良いものではなかった。


 そうこうしている内に、予定よりも一時間早く大家が訪ねて来た。予定の狂った私は、彼女を招き入れると、すぐ戻ると言って大慌てでゴミ捨てに行き、そしてやっと、既にキッチンの椅子に腰掛けていた彼女の前に腰を下ろした。後から分かったが、彼女が一時間予定を間違えていたらしく、それが判明するや否やこれでもかと言う程に平謝りであった。

 私は大家と二人で、真新に片付いた部屋を順々に見て回った。リビングも寝室もトイレも浴室もキッチンも、私が恋人と二人で引越して来た最初の日と同じように空っぽであった。あの当時も車を持たなかった私達は、重たい荷物を引き摺りながらバスで何度も往復してこの部屋を埋めていった。

 六年前よりも遅くなった足取りで一通り巡遊を済ませた大家は、キッチンに帰って来ると一息ついてまた椅子に腰掛けた。そして五センチ程もあろうかと言う分厚いファイルを開き、各種手続きについての説明を始めた。大して難しい事も無かったその説明は、心配性の彼女が何度も同じ事を繰り返し念を押していたのを除けば、あっという間に片付いた。それから彼女の思い出話を含む世間話が始まり、私達は気付けば小一時間も世間話に花を咲かせていた。

 その最中、彼女は私の手荷物を見ると、一人でこれを運ぶのかと、懐疑の一瞥を私に投げた。小振りのスーツケース、リュックサック、ノートパソコン、肩掛けの鞄、それから雑貨類をぎゅうぎゅう詰めた家具屋の大きい袋が私の手荷物で、これは私の事前計画よりも大幅に多くなってしまっていた。とは言え、彼女はすっかり老婆であるから想像はつくまいが、私は平気で運べると考えていたので、へらへらと笑いながら、大丈夫だと返事をした。尤も何十分もその大荷物を背負って歩くとなれば話は別だが、近くに中央駅まで走る地下鉄も通っていたので、絶対的な勝算はあったわけである。

 ところが彼女は相変わらず私の話を聞かず、無理だ、無理だの一点張りであったので、私は堂々と我が算段を展開してやろうと考えていると、彼女はおもむろにタクシー代として二十五ユーロの餞別を私に寄越した。これは想定外であった。私は何度かしつこいほどに遠慮の旨を伝えたが、次第にこの金が純粋な彼女の優しさであると解ると、私は大人しくなり有難く受け取る事を決めた。それから彼女は、道中腹が減っては困るだろうと、自前の手提げ鞄の中からバナナとオレンジを取り出してそれも私に寄越した。今度は、私は始めから大人しく受け取った。そうして世間話を終えると、私は大荷物を背負い、彼女と一緒に部屋を出た。彼女が扉の鍵を閉め、私はとうとう二度とその部屋に入る事が出来なくなった。彼女の案内で最寄りのタクシー乗り場まで行き、最後に感謝を伝え合い、健勝と多幸を祈り合い、私達は再会の見通しも立たないまま別れた。


 タクシー代や果物と言った目に見える餞別に加え、彼女が世間話の合間合間に何度も口にしていた私と恋人の人格や働きぶりを讃える言葉も、安易に嬉しいという言葉で片付けるには余りに感慨深い余韻を私の心に残していた。六年前、稚拙なドイツ語でもって日常的に口論をしていた相手とは到底思えないのであった。中央駅へ向かうタクシーの中で、私はあまりにも優しく美しい最後を噛み締めていた。

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 二時間ほど列車に揺られ、シュトラウビング(※2)という田舎町に到着した。時刻は夕方の十七時頃で、間もなく日も沈まんとしている。駅を抜けると迷わずタクシー乗り場へ行き、歩けば十分と掛からない道程を快適に過ごし下宿先へ向かった。しばらく住んで気付いたが、日本人はおろかアジア人さえほとんど見掛けない程の田舎街である。

 前日に鍵を受け取っていた私は、建物の玄関を抜け、私が借りる部屋の鍵を開け中に入ると、運び込んでおいた荷物の山が記憶していた以上の存在感を放ち私を歓迎してくれたー。取り敢えず背負って来た荷物もその山の麓に下ろすと、一旦椅子に座って凡そ六畳程の簡素な部屋を見回してみた。勉強机があり、その脇にちょっとした棚が備え付けられ、後はクローゼットとベッドとちょっとしたロッキンチェアがあるだけの部屋である。

 荷解きをする前に他の共同スペースを見ようと一度部屋を出た。浴室はバスタブとトイレと洗濯機と洗面台が一繋がりのスペースに並んでいる。リビングは大きいソファーとガラスのテーブル、テレビがあった。リビングの脇には同居人が済むもう一つの部屋があり、奥に行くとキッチンがあった。食器や調理器具も十分に揃っていて、せっかく持ち込んだ食器類は一旦触らず、梱包されているそのままにしておこうと決めた。


 荷解き、そして部屋の整備は想定以上に骨が折れた。何をどこへ、どこに何をとやっている内に段々と嫌になってくるのである。そうこうしていると、部屋の扉をノックする者がいた。開けると同居人のマックスと名乗る男であった。下宿先やマイスター学校の説明をするその態度は実に好感の持てるものであった。

 彼が部屋に戻る。私は同居人との顔合わせを済ませ、一段落ついた様に心を落ち着けた。
 
 その日は荷解きに全身全霊を費やし、見慣れない天井を見上げながら眠りについた。そして次の日から各種住所変更手続きなどをしながら、月末から始まる学生生活に向けた準備に取り掛かった。


 いよいよ新しい生活が始まった。余計な誘惑の無い静かな街。勉学に集中出来そうな簡素な部屋。憧れていた敬太郎や森本の様な慎ましき下宿生活。今後、目標に向かって邁進していく上で申し分のない環境に身を置けている事を、これまで背中を押してくれた数々の応援に感謝するとともに、これから始まる挑戦を今か今かと待ち侘びるのである。

(※1)ミュンヘン:南ドイツ・バイエルン州の中心都市。




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*0-1 プロローグ前編


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