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*2 パン工房の外で

 コロナウイルスの勢いが留まるところを知らない。週中にいよいよ緊急事態宣言が出されるというニュースが流れたかと思えば、その前日には過去最多の六〇〇〇人もの新規感染者が日本全国で見られたというニュースも入ってきた。
 水際対策の強化や二月に予定されているワクチン接種などの尽力を伺える朗報も見られるが、自粛要請に応じない飲食店は店名を公表するというイジメ紛いの手段を恥ずかしげもなく発表してみたり、未だにオリンピック開催へ目を爛々とさせている官僚がいたりと、どうしても拭えない不安と言うのが実はウイルス自体に限った話では無さそうに思えて、その行く末を社会的未熟者ながらにして案じざるを得ない日々である。

 時を同じくしてそんな社会的未熟者が暮らすドイツでは、連日全国で一万人以上の新規感染者を出しており、私が住むバイエルン地方(※1)に限っても四〇〇〇人程度の新規感染が報じられる。去年の十一月から始まったロックダウンは当初一月十日までの予定であったが、その規模を日に日に拡大させながらいよいよ月末まで延長されてしまった。

 飲食店が軒並み営業停止を命ぜられる中、パン屋がエッセンシャルワーカーと認定され生き残り、当然天災の影響は受けながらも未だに職を失わずに生活を維持出来ている事は一口に幸運というだけでなく、いかにドイツと言う国においてパンの存在が重要かという事の証明である。

 仮にロックダウンの措置によりパン屋が閉まっていたとしても、実際パスタやジャガイモ、米など様々な代替品で炭水化物は賄えるはずである。それでもパンは生活必需品という位置付けを守っている不思議をドイツ人に質問したとしても、思考の方向を転換しただけの様な質問で返されるのが関の山だろうと。「なぜ、パンが生活必需品なのか」と言う問いに対する答えはきっと「なぜ、パンが生活必需品では無いことがあろうか」だからだ。この押し問答はすなわちドイツにおける革新的な非常識と歴史的な常識の対立である。パンの喪失はすなわち安心の喪失であり、生活基盤を構築する要素のひとつとして一際大きな役割を担っているそれがドイツのパンなのである。

 意図せず熱弁を振るってしまったが、これは私一個人の勝手な見解であるのであまり真剣に向き合われずとも止むを得ないものと心得ているので安心して続きを読んでいただきたい。



 世間もバタバタしているが、今週の私も月曜日からずいぶんと忙しなく動いた。

 月曜日の仕事終わりに私はアパートの契約解除の書面を大家の元へ届けてもらうよう帰り支度をしていた同僚に依頼した。というのも同僚が住むアパートも私が住むアパートも、職場の会長夫人の管轄であり、同僚が住むアパートの方に夫人の事務所が隣接しているからである。

 私も以前そっちのアパートに四年ほど住んでいたのだが、私が入居した当初は改築したばかりという事もあり、大家である会長夫人の管理が非情なまでに厳しく、毎日のように部屋を見に尋ねて来ては、こちらの事情などお構いなしに、やれここが汚いだの、やれこれを片付けろだの土足で部屋中をドシドシ見て回り、挙句の果てには「明日、片付けたかどうか確認しに来る」と言い捨てて帰ったかと思えば、次の日の夕方五時頃に来て部屋の扉をドンドンドンドンと喧しく叩いてくるのだ。深夜一時からの仕事に合わせた私の生活リズム上、夕方の五時はさてこれから眠りにつこうかと目を瞑り始める時間である。大家ではありながら、あくまでパン屋の会長夫人とはとても思えないその自分勝手さに、時に口論をし、時に彼女の訪問に怯えながら過ごしたのを覚えている。

 それでも部屋としては実に綺麗で、ベッドも机も椅子も一人掛けソファもクローゼットも備え付けられていて、シャワーやトイレ、キッチンも完備されていた。キッチンには食器や簡単な調理道具も揃えられていたし、それでいて家賃が月一五〇ユーロ(※2)という破格の物件であったから、職業訓練生で毎月の手取りが約三〇〇ユーロ(※3)程度だった当時の私にとって申し分のない部屋であった事は間違いなかった。

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月曜日に仕事から帰ってくると、郵便受けの中に封筒を見付けた。差出人は、ミュンヘンの教育スポーツ局。去年の十二月の頭に当局へ、今年通うマイスター学校用の助成金を申請した。それからしばらく連絡が無く少しずつソワソワしていた所へ手紙が届いたので、安堵の気持ちと、それから今週は色々と事態が動きそうだという予感が働いた。

 内容は、以前に送った申請書類に不備があったとの通達で、なるほど、と過去の書類を思い返しながら、書面に記載されている不備の書類を確認した。多少の胸騒ぎはあったがまあ準備に難しいものは特にないし、マイスター学校の方に問い合わせる必要があるものと保険会社に問い合わせる必要のあるものと、後は自分で用意出来るものの四つか、と読み進めていくと締め切りが定められている事実が目に飛び込み、その途端、急に時計が高速で進み出し自分が世界から置き去りにされるような錯覚に胸騒ぎが激化し一度手紙から目を背けた。

 締め切りは二五日。それを過ぎた場合、助成金の申請は認められないという非情な通達。その日は一月四日、残りの二十一日を頭の中で思い浮かべると、遠いようで近く、また近いようで遠いようにも思われた。そこは思考の方向転換を駆使し、二十一日しかないと思うのか、まだ二十一日もあると思うのか、自分の逸る心を落ち着けるには後者を選び取る他無かった。

 一先ず昼食を済ませシャワーを浴びると、それから私はスマートフォンを開きマイスター学校へ送るためのメール作成に取り掛かった。ドイツ語でメールを打つ事にもすっかり慣れたと自分でも思うが、その時ばかりはそれ以上に焦る気持ちが脳を活性化していたように思われる。送信すると、その直後から気持ちが慌てだす。実際、この焦りはまだ起こっていない最悪の事態を想定した一種の空想に過ぎないと自分に言い聞かせて、その日は眠りについた。

 翌日、仕事終わりにスマートフォンを確認すると一件のメールが届いている。マイスター学校の担当者からの返信であった。私が投げ掛けた質問への返答を読む。用事が済んだ件と次なる課題が課された。


 それから保険会社のホームページを漁る。必要な情報を探す様は、まさに並ぶドイツ語に眩暈がせぬよう、揺れ動く心境にバランスを崩さぬよう情報の波の中に必要な情報を選別しながら掻き分け進むサーファーの様であった。
 社会的未熟者である私の無知が祟り、こうして忙しなく、また滞りなく物事が運ぶ事を祈るしかないような状況を生み実に不憫であるが、この期に及んでの反省と自虐はもはや無為徒食である。私はまた質問をこれでもかとメールに打ち込み保険会社に送った。それから三日間、頻りにスマートフォンを開いては返事の有無を確認していたが、金曜の夜を迎えた時点で来週に持ち越さなければならない状況を悟った。


 その他にも、引越しに向けて不要になった本を引き取らせてほしいという申し出のあった先からお金が振り込まれていたのを確認し本を発送してやったり、大家からの連絡でいついつなら空いているからと引越し前の確認に出向いて来る日取りが決まったり、移住先の街の役所に転入に纏わる質問を投げてみたり、大取りは日曜出勤であった。

 この職場で最後の日曜出勤は、同僚のスティーブンと二人で終始穏やかに片付けて、最後は彼が車でアパートまで送ってくれた。思えば随分と仲良くなったものである。
 さっきまでなんだかんだ喋りながら働いていた彼の黒い車が、まだ暗い早朝四時の寒空の彼方に徐々に溶け込んで行きやがて見えなくなると、急に辺りの静寂が過ぎた楽しい記憶の輪郭をなぞり、別れは意外にも淡白であるという事を、月末に退職を控えた私に囁くのであった。



(※1)バイエルン地方:南ドイツの主要都市・ミュンヘンのある州。
(※2)一五〇ユーロ:日本円にして当時で約2万円。
(※3)三〇〇ユーロ:日本円にして当時で約4万円。

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