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*9 想い出を後にして

 フランクフルト空港から帰ってきた時は隙間だらけで私一人に対し空間を持て余していたアパートの部屋も、日に日にその規模を縮小していると見えて、相対的に自分を小さく見積もる事も少なくなってきた。

 一人になると寂しいのは紛う事なき事実であるが、いつまでもおめおめとそんな事ばかり考えていても仕方がない。しかしここで言う寂しさとは、決して愛の欠損によるものに限った話ではなく、時間的余白の中で己に対する遣る瀬無さを感じている事をも指している。世間体を憚らずに言えば所謂ニートとなったのだが、これは人生の休憩時間だなどと安易に考えていたから、一人になった途端その現実をまざまざと見せ突けられ、急に世界の速度が上がったような気がして、家でじっとしているのが宛ら罪であるかのように居た堪れない気持ちになった。



 先々週辺りに今か今かと待ち侘びた保険会社からの加入証明書がようやく届いたので、私は助成金申請書類の準備にかかった。以前不備があって再要求された書類の内現時点で用意の出来る、保険証明書と履歴書、それから来月から始まるマイスター学校の授業予定書を揃えて、それらを封筒に詰め郵送した。実は先月にも一度、助成金手続きを担当している課から不備書類の要求があり、その際は保険会社からの加入証明書を締め切りぎりぎりまで待ったのだが届かず、それ以外の書類と説明書きを添えて送ったのだが、そこでもまた不備があった為にこの二月にもう一度要求されたというわけである。準備出来ない場合は受け取り次第で送ってください、という説明が添えられていた幾つかの書類は良いとして、履歴書には必ずサインをして下さい、という理由で履歴書ももう一度送った。これで一旦済みである。

 それから、住所変更をしろと大家に急き立てられたので、予約を取って役所に行った。以前、インターネットで調べた時は、移住した先で申請すれば良いと書かれていたと思ったのだが、まぁドイツ人の大家が言うのであるから、と思い直し役所に出向いた。機械から手に吹き掛けられた消毒用のアルコールの量が比較的多く、いつも以上に手を揉みながら待合室に入ると、並べられた座席の七割程がビニールテープで封鎖されており、椅子取りゲームに敗れた者達が各々壁際や窓際に立っていた。事態を飲み込み、当然納得しながら、それでもきょろきょろと辺りを見回してみると、一つだけ空席があったので、周りで立っている先客を尻目に、必要以上に手揉みをするアジア人はそこに腰を下ろした。

 時間は午前十時四十五分。予約した時間通りである。待合室で腕を組む人々の視線の先には電光掲示板があり、順々に予約番号と対応に当たる部屋番号が表示されていた。予約の時間になったが私の番号は見当たらない。予約番号が無作為に割り当てられているのか、次は私の番だと予測するのも困難な数字の並びであった。

 十分程経過し、ついに私の予約番号が表示された。私は潔く立ち上がり対応の部屋へ向かった。後ろを振り返らなかったので、私が離れ再度空席となったその椅子が、すぐにまた別の尻を受け入れ空虚を埋めたかどうかは迷宮入りである。

 ノックをして部屋に入ると若く恰幅の良い女性が対応に当たってくれた。席に着くか着かないかくらいで早々に要件を聞いて来た彼女に、三月からミュンヘンを出るので、と言いかけた所で、事前に住所を変更する事は出来ないわよと、早々に出鼻をくじかれた。そうなんですか、と納得した上で、しかし怯まずに、私は三月にシュトラウビング(※1)に移るのですが移住先で申請すれば良いのですか、と聞くと、当然そういう事になります、という返事が返ってきた。

 私はすぐにインターネットで得た情報が正しかった事と、母国の人間と言えど母国について全て知っているわけではないという至極当然な事を脳内に引っ張り出し、対応してくれた彼女に、わかりました、ありがとうと伝え、部屋を出てその足で一気に役所を出た。

 後日、大家が家に来た時に、住所変更はしたのかと聞かれたので、移住先で変更すればそれで良いようだと伝えると、なるほどといった風の反応でそれっきりであった。私もまたそれをとやかく気にするわけでもなかったので、シュトラウビングでそれをしないといけないという事を忘れぬように頭の中に刻んだ。




 恋人が日本へ帰るよりも前に二人で大掃除を済ませたアパートの部屋は、私一人が慎ましく暮らすくらいではほとんど汚れなかった。それでも、今週末を過ぎればもう戻ってこないこの部屋を最後にもう一度掃除をした。

 ドイツでの生活、と聞いた人々の脳内で想像される生活風景とはどのようなものだろうか。恐らくではあるが、私が渡独前に抱いていた想像と大差なく、石で出来た少し汚れ混じりの歴史的な建造物の中、木製の階段を昇った先の扉を開くと、絵になるほどの白い壁に囲まれた美しい空間で、窓からはドイツの景観が一望できる、と言った類ではないだろうか。

 しかし実際今私が住むこのアパートは、かつて妄想していた部屋とは裏腹に不便と不具合ばかりである。ここで、これまでお世話になった部屋に残る思い出を回顧すると共に、ドイツに住む私が華々しい生活とは無縁であるという現実を証明する。

 まずトイレは酷かった。便器の冷たさやウォシュレットが無い事などはもはや問題視した事が無いのだが、ちょっとトイレットペーパーを流すとすぐに詰まるのである。そうすると当然詰まりを解消する必要があるのでラバーカップを使ってこぽこぽと立ち向かうのだが、酷い場合、何時間もトイレに閉じ籠もり詰まりと格闘するのだが、そんな事もざらであった。これが何よりのストレスであった。

 また、この部屋には洗濯機を取り付ける設備が無く、引越しした当初はバスと徒歩で十分程の所にあるコインランドリーへ毎週末のように行き、その度八ユーロ(※2)を浪費していた。それからしばらくして、キャンプなどで使われる小型の簡易な洗濯機をインターネットで頼み、あれこれ考えた結果、浴室の扉を外し、入り口に寄せるように大きめの台を置きさらにその上に洗濯機を設置し、洗濯の際はシャワーを引っ張って洗濯機の中に水を流し込み、排水ホースを浴槽に垂らして行っていた。しかもこのホースの長さがぎりぎりである為に、不注意で排水の水を床に撒けてしまう事も度々あったのだが、洗濯機とそれを支える台が廊下と浴室の入口を塞ぐように鎮座していたお陰で、動線が狭まってしまったのも、とても快適な生活とは程遠い要因であった。さらには浴室の脇がすぐに洗面所である為、シャワーカーテンと突っ張り棒で即席に仕切りを作っていたのだが、その洗面所の床も一部タイルが盛り上がって壊れているのである。

 それ以外にもインターネットを引っ張るコードを通す為にリビングの扉は終始開け放しにせざるを得なかったり、寝室の扉は閉めるのにきーきーやかましかったり、コンロ設備も古く電熱式で迅速な火力調節などもはや不可能であるし、備え付けのオーブンは今にも壊れそうである。

 不具合に手を焼き、不便に頭を抱えながら、それでもそんな優雅ではない環境を恋人と笑い合い、どうにか工夫して乗り越えて来たという歴史は良い思い出である。掃除をしながらそんな事を思い出した。

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 私の唯一とも言えるイタリア出身の友人に有償で引越しの手伝いを頼むと、有難い事に引き受けてくれた。彼とはかれこれ六年ほどの付き合いである。六年前に語学学校で出会って以来、旅行へ行ったりふらっと食事に出掛け他愛もない話を交わしながらこれまで親睦を深めて来た。そんな彼ともまた暫くの間そう容易に会えないと思うと、ミュンヘンという街を第二の我が故郷と言っても過言ではないような気さえする。

 久しぶりに乗る彼の車は荷物と私を積み、次の街へ向かって進み始めた。そうしてこの時を見計らったかのように、かくして助成金受給の詳細が送られてきたのだった。



(※1)シュトラウビング:バイエルン州にある小さな街。ミュンヘンから約150㎞。
(※2)八ユーロ:日本円にして約1000円。


最初から読みたくなった方はこちら↓
*0-1 プロローグ前編


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