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ドイツパン修行録~マイスター学校編~

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製パン経験の全く無かった元宮大工の男がパンの本場ドイツに渡り、国家資格である製パンマイスターを目指す物語のマイスター学校編。 田舎町に移り住み、通い始めたマイスター学校。真っ新な… もっと読む
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#ドイツ

*29 マイスターブリーフ

 今週は片時も休まず心をそわそわとさせながら過ごした。厳密に言えば週の頭頃はまだそれほど落ち着かないでも無かった。それが週も後半に差し掛かるにつれてどんどんと大きくなっていった。理由は他でもない。マイスターブリーフの授与式が金曜日に予定されていたからである。  まず始めに正直を申し上げておきたい。マイスターブリーフ授与式の招待状が手元に届いた時の私は、出席しないという選択も厭わないとする心持であった。大変光栄な式典である事は私にも十二分に理解出来ていたのだが、如何せん人の

*8 パラダイム

 私の心配性は時として心配症と表記する方が相応しいまでに病的にその力を発揮する場合がある。良くも悪くも想像力が豊かだと言われながら育ってきた私は幼少期に何の影響か、父親の隣で眠るその寝室の窓から狼が飛び込んで来るのを想像しては怯えていた。世の中何が起こるか分からないとは言え極めて可能性の低い事柄まで針小棒大に扱っていては限が無いのであるが、この癖ばかりは未だに抜けないでいる。それだから見ず知らずの人間が私の部屋を訪ねて来るとなると、どんな人が来るのかとあらゆる人物像を思い描い

*39 才能なんかいらない

 試験前最後の日曜日の早朝、悪夢に魘されて目を覚ました。遅刻をする夢などは子供の頃から何か重要な行事がある度に見てきたのだが、今度は試験が始まるやいなや気を失って机に伏せたまま試験を終え、それで取り返しの付かない事をしてしまったと心臓を動悸々々とさせていた。目を覚まし、それが夢だと判ると安堵の溜め息を漏らしたが、体はまだふわふわとしている様であった。四時前の事であった。  試験を翌日に控えた日曜日の夕方頃になって、突如気持ちが猛烈に不安定になった。計算問題を復習していても数

*1 年末年始とパン職人

 どうして日本人はクリスマスにケンタッキーを食べるんだ、という質問がシモンから投げ掛けられてくると、これがクリスマスシーズンを迎えた合図である。五十手前の彼は仕事以外の時間を全て雑誌やらテレビやらに費やしているんだか、スマートフォンが苦手なわりに物知りな男である。日本人がケンタッキーをクリスマスに食うという話も雑誌だかテレビだかで特集されていたようで、5年前にその真偽を問われて以来、毎年恒例にその疑問が彼の中で込み上げてくるのだろう。5年も続けばもはや飽きを越えて冬の風物詩で

*2 パン工房の外で

 コロナウイルスの勢いが留まるところを知らない。週中にいよいよ緊急事態宣言が出されるというニュースが流れたかと思えば、その前日には過去最多の六〇〇〇人もの新規感染者が日本全国で見られたというニュースも入ってきた。  水際対策の強化や二月に予定されているワクチン接種などの尽力を伺える朗報も見られるが、自粛要請に応じない飲食店は店名を公表するというイジメ紛いの手段を恥ずかしげもなく発表してみたり、未だにオリンピック開催へ目を爛々とさせている官僚がいたりと、どうしても拭えない不安と

*3 酸いも甘いも

 すっかり雪に覆われたミュンヘンになおこれでもかと吹き荒れる細かい吹雪の中を、人通りの少なそうな真っさらな道に足跡をつけながら私は保険会社を目指して突き進んでいた。雪を踏んだ時のくっくっと鳴る音に地元の雪国を駆けた幼少期を思い出し、まるで真逆の状況に生きる現在と照らし合わせ何故か親のような心持ちになった。  予約をしていなければ入れない保険会社の入り口には鍵が掛けられていた。ガラス扉にベタベタと貼られた注意書きに一通り目を通した後、呼び鈴のボタンを押した。ドイツに来たばかり

*4 ドイツのパン屋

 いよいよ着用するマスクの種類まで指定されてしまったミュンヘンは、そのロックダウン期間を二月まで延長するという発表が出され、またも予定を変更する必要が出てきてしまった事に私は意気の消沈を隠せずにいる。辛うじて二月末まで住まわせて欲しいという私の懇願を大家が呑んでくれたお陰で住処は確保出来たものの、果たして三月になれば新しい下宿先が空いて予定通りに居を移せるかどうかは神でさえ知る由もないだろう。  それでも私は今日も夜中の十一時に目を覚まし仕事へ向かう為の支度をする。この有為

*5 おわりはじまり

 ドイツに来てから五年間世話になったパン屋をとうとう辞めた。気付けば前職の宮大工であった四年を越え、暦で見てももう肩書はパン職人たるべきはずである。振り返ろうとすると想像以上に文字数が嵩みそうなので、今回ばかりは覚悟を持って読み進めていただきたい。  去年の春頃に企てた時点ではその年の七月まででとっくに辞めているはずだったのだが、言わずもがなその計画を変更せざるを得ない状況を迎え、そうして年の明けたこの一月末に照準を合わせて来た。一日一日指折り数えながら遥か先の事のように思

*6 天使の拍手が鳴るかのように

 始業の定時である深夜一時よりも十分程早く工房に入り、すでに仕事に掛かっている数人の同僚に挨拶をしながら自分の持ち場である巨大なデッキオーブンの前まで足を運び、オーブンに窯入れや窯出し用に備え付けられた機械を操作する為のコンピューターの電源を入れ、冷蔵室で丸一日時間をかけてゆっくりと発酵を進められたバゲット生地が並べられている天板でいっぱいのキャスター付きラックを引っ張り出し、ナイフでクープを入れ窯入れする。それを皮切りに、その日中に出荷されるべき五種類のブロート(※1)を順

*7 パン屋に映す歴史的浪漫

 ドイツに来るより前に私がドイツに対して抱いていた印象、あるいは得ていた知識はほとんど無かった。ドイツ語圏である事とビールとパンとソーセージ、それくらいであった。ところが同時期にドイツに来て知り合った邦人達の口からは、ジャガイモや豚肉であるとかサッカーや古城であるとか、どこでどうやって仕入れたのかと思うような話を聞いて私は自身の無知をひそひそと恥じた。  皆が言うように、確かにドイツ料理と呼ばれる物のほとんどが豚肉とジャガイモの組み合わせであったし、古城が多い事や、サッカー

*8 夢を見るということ

 恋人が搭乗ゲートへ向かい、その背中を見送った瞬間から私達の九〇〇〇㎞に渡る遠距離恋愛が始まった。  フランクフルト(※1)は晴れていた。ミュンヘンの部屋からフランクフルトへ向かう道中で、スーツケースやボストンバックを携えた人をほとんど見掛けなかったので、このご時世、もはや後ろめたさを感じる様であったが、空港に近付くに連れそういった姿がぽつぽつと増えだすと少し安心した。それどころか、空港に入るとトルコ航空のチェックインカウンターには長蛇の列が出来ており、私の恋人同様祖国へ帰

*11 パンを求めて

 引っ越してからの日々は至極平坦な物である。しかし平単でありながら、一般という枠からはすっかりはみ出してしまっているように思われて、どことなく肩身が狭い様な気持ちがする。最新の流行を把握しているわけでもなければ、経済の動向を細かくチェックしているわけでもなく、いわば社会人であれば当然であるべき筈のルールを悉く疎かにしながら、それでも今日もこうして一丁前に営まれる生活という支川が、再度社会の激流とぶつかり合流する日を今か今かと待ち焦がれている者こそが私である。  そんな私が今

*12 不安な心は春風を待つ

 最も単簡な言葉で言い表すとすれば、先週末に焼いたパンは満足の出来であった。或いは、こんな可もなく不可もない無難な表現で言い表す外に、適当に装飾出来る言葉が見当たらない程至極平凡で、仮にも製パンに従事する者としては所詮最低点を上回った程度な当然の出来栄えであった。特別輝かしかったわけでもなければ、飛んでもなく酷かったわけでもないのである。  しかし私にとって大切だったのは結果よりも工程にあった。先だって自らを「製パンに従事する者」と謳った矢先であるが、肝心の製パン業から離れ

*38 最終決戦

 正念場である。言ってしまえば今年は春先から絶えず正念場の中を潜り抜けて来たようなものであるが、今週で授業も終わり来週の月曜日に試験を控えた極めて正念場たる正念場を迎えている。終わり良ければ全て良しと言うのであれば、その逆もまた然りの筈である。これは何も結果を言う訳ではない。最後まで挑戦者として毅然たる態度で真摯に立ち向かう事を擲ち、土壇場で膝を震わし怯んでいては背中を押していた応援歌も忽ちブーイングに姿を変え背中にぐさぐさと刺さるに違いないのである。南ドイツの方言や外国人と