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*7 パン屋に映す歴史的浪漫

 ドイツに来るより前に私がドイツに対して抱いていた印象、あるいは得ていた知識はほとんど無かった。ドイツ語圏である事とビールとパンとソーセージ、それくらいであった。ところが同時期にドイツに来て知り合った邦人達の口からは、ジャガイモや豚肉であるとかサッカーや古城であるとか、どこでどうやって仕入れたのかと思うような話を聞いて私は自身の無知をひそひそと恥じた。

 皆が言うように、確かにドイツ料理と呼ばれる物のほとんどが豚肉とジャガイモの組み合わせであったし、古城が多い事や、サッカーの試合がある日はスタジアムへ向かう地下鉄が満員になる事も経験として知った。今誰かにドイツの特徴を聞かれたら私も迷わず豚肉とジャガイモをビールで流し込んで、古城を望みながらサッカーに熱狂する国だとようやく説明する事が出来るだろう。いや、ひょっとすると長く住み過ぎたが故にそれらの名物をさて置いて、ガイドブックには決して載らないような欠点ばかり口から垂れてしまうかもしれない。長く住むのも考えものである。


 月曜日に近くの精肉店でシュヴァイネブラーテン(※1)がランチメニューに出されていたのでお昼に買って食べた。飲食店が軒並み閉まっている中で、久しぶりに食べた豚肉とジャガイモにドイツの味を思い出した。

 口の周りにしぶとく残る味の濃いソースを拭うと、薄手のジャケットを羽織り電子レンジを抱えて恋人と共に外に出た。前職の同僚に譲り渡す為である。もう還暦間近でありながら独り身で飄々と暮らす彼が住んでいるアパートは会社の所有で、ミュンヘンでは破格の家賃であり、二○十九年の夏まで私も住んでいた場所なので、それまでの道中の景色を懐かしんでいると、以前は地下室の建設の為に巨大な穴を掘られていた地面からすっかり幾つものマンションが生えており、時間の経過を実感する材料としては充分であった。

 空は晴れ渡り、冬でありながら麗らかな春の中をゆく気分であった。アパートに着くと彼は部屋に招き入れてくれた。私が電子レンジを床に降ろさんとする背中越しに「何か飲むか」という質問があったから、私が返答の為に振り返るとすでに冷蔵庫の中から缶ビールが出されていた。時刻は昼の一時。私達三人はビールを飲み飲み、何だかんだと話を弾ませた。こう短期間で何人とも会うと私の口から出る話の大部分は使い回しになってしまうのだが、私の性質上会話の内容よりも会話という行事が盛り上がる事の方が大切なので別段構わなかった。拳を突き合わせ最後の挨拶を交わすと、真白の髪と髭を蓄えた男を残しその部屋を後にした。



 水曜日にはまた雪がチラついたかと思えば、あっという間に辺りは白く煌めいた。そんな中をこれまた元同僚の家を目指していた。同僚と言っても彼女は製菓の職人であった為に、一緒に働いた事は極稀だったのだが、電車通勤と言う点に置いては同じであったので、割と最初の頃から話す事が多かった。トーゴ(※2)出身 の彼女は、肝の座った気の強い、面倒見の良いその性質そのままに、現在は赤ん坊と二人で暮らし、その偉才を母として遺憾無く発揮していた。彼女が産休を取っていたので随分長い間会う事も無かったのだが、寿司が食べたいという彼女の為に私と恋人で朝から作った太巻きを渡すと、かつてと変わらない表情に綻んだが、何処かにやはり母親たる力強さが垣間見え、それが唯一異なる点であった。

 機嫌の良い赤ん坊をあやしながら、彼女は新しく買ったベッドをまだ組み立てられずにいるという話をしたので、寝室を覗くと各部未だに透明のビニールに包まれたままのダブルベッドがそこにはあった。ベッドの様子を見ると、あれこれと道具が必要そうだったのでその日はそれで帰り、翌日、三人がかりで何とかベッドを組み立てた。電動ドライバーなどを使った時は、昔大工として働いていた頃の感覚が有無を言わせず蘇った。すると彼女はお礼をしたいと言いだし、また翌々日に夕食に招待されアフリカ料理を振る舞ってもらう事となった。


 揚げバナナ、魚のトマトソース、細かく刻まれたオクラ、グリスと呼ばれるトウモロコシの粉とセモリナを練り上げた物、どれも自分にとって目新しい物ばかりで実に興味をそそられた。魚のソースにオクラを混ぜ、手でグリスを一口大に摘み取り、それをソースに絡めて食べる。オクラのせいでするすると逃げるソースを何とかグリスに絡まらせ口に運ぶと、魚とオクラの風味がトマトよりも強く口の中に広がり、これが実に美味しかった。揚げバナナに関しては味の想像も付かなかったが、少し甘味のあるフライドポテトのようでこれも美味しかった。

 トーゴ人が作る料理である、これぞ本格的なアフリカの味と言っても過言ではないだろう。貴重な体験と愉しい時間を過ごした彼女の家を出ると、外は極寒であった。見るとマイナス八度とあったが、それだけでなく何処か温かみのある空間を出た事で尚更体感温度は低かったのだろうと、暗い雪道を家まで歩いた。



 週の半ばから昼夜問わずずっと寒さが酷い。昼間、太陽が照っていようと気温で見れば氷点下を下回っているのである。窓掃除をすれば、水拭きをする傍からすぐに凍っていく始末である。冷蔵庫などもはや不要なほどである。月曜日の春の気候がとても現実世界の事とは思えないほどである。

 前職場の会長夫人であり大家でもある彼女が点検に来るまでに、と意気込み大掃除を敢行していた。思い出の物を捨てる事に抵抗を感じる事もありながら、片や綺麗になっていく部屋に喜びも感じた。全て一通り済まして辺りを見回すと、室内に漂う空気までが寂しさに侵されている様であった。

 予定より十五分も早くチャイムが鳴った。この辺りは依然と変わらない大家らしさであったが、部屋に入ってきた彼女を見ると、随分元気が無さそうに見えて私は思わず、お元気ですか、と聞くと彼女は膝が痛い、腰が痛いだのと言いながらそれでも大丈夫と付け加えるのを忘れなかった。私は五年前、初めて彼女の管轄下にある部屋に入った頃の事を思い出した。以前こうして書き記した事(※3)があったが、当時はその部屋が改装直後という事もあり、彼女は毎日のように掃除のチェックに私の部屋を訪れては、あれが汚い、これを片付けろと、まるで母親か、あるいはそれ以上に口五月蝿く言ってきたので、幼稚だった私も負けじと靴を脱いで入れだの、時に居留守を使うなど抗戦していたのだが、今目の前に見る彼女と回想の中で戦っていた彼女とが、到底同一人物とは思えなかったのである。私は、彼女が解約手続きうんぬんの説明をしている間も終始脳裏にその心配がふわふわと浮かんでいた。こんな世の中である、最後に私は心から、お体に気を付けてと声を掛け小さくなった背中を見送った。

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 そんな彼女が最後に私の前職場に当たるパン屋の、実に興味深い歴史を物語ってくれた。

 私が今住む部屋の真下には、そのパン屋の支店があったのだが去年末に閉店を余儀なくされた。話によると、ここが第一号店であったらしく、それどころか彼女の義理の両親、即ち会長の親が営んでいたこの第一号店の小さな工房で会長が職業訓錬に励んでいたのが始まりであったという。それからその工房を拡大したいと建物の管理会社に相談した所断られたので、月曜日私が電子レンジを運んだ地区まで場所を移し、さらに拡大する為に現在の場所まで移ったという話であった。

 私が働いている時点で既に大きな工房を構え二十近い支店を持っていたパン屋、私からしたら時折顔を出す程度の政治家を兼ねる会長、それらの歴史が小さく始まった建物に今こうして暮らしていたのかと思うと、なんとも壮大な浪漫を、この古い扉に、この壊れた床に、この幕を閉じた支店の外壁に未だ残された看板に映し、ただ労働し、上辺だけでは見られなかった貴重な一面を経験として知れた事に、またドイツに来た事の価値を見出すのであった。



(※1)シュヴァイネブラーテン[Schweinebraten]:ドイツを代表する豚肉料理。ローストポーク。
(※2)トーゴ:ギニア湾に面した西アフリカの国。
(※3)以前こうして書き記した事:「*2 パン工房の外で」参照


最初から読みたくなった方はこちら↓
*0-1 プロローグ前編

前回の話も気になった方はこちら↓
*6 天使の拍手が鳴るかのように


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