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*29 マイスターブリーフ

 今週は片時も休まず心をそわそわとさせながら過ごした。厳密に言えば週の頭頃はまだそれほど落ち着かないでも無かった。それが週も後半に差し掛かるにつれてどんどんと大きくなっていった。理由は他でもない。マイスターブ※1リーフの授与式が金曜日に予定されていたからである。
 
 まず始めに正直を申し上げておきたい。マイスターブリーフ授与式の招待状が手元に届いた時の私は、出席しないという選択もいとわないとする心持であった。大変光栄な式典である事は私にも十二分に理解出来ていたのだが、如何せん人の多く集まる所が苦手な性分が顔を出した。大勢の人がいるというだけで元来の心配症に拍車が掛かり、あれやこれやと不安を並べては心臓の鼓動を早まらせる始末であった。それも授与式だけであればまだ良かったのであるが、そこに会食も含まれるんだというから不安や心細さは殊更煽られた。先日職場で起こったクラスター感染でカモフラージュしてしまおうかとも考えたが、欠席の理由にするには古過ぎる出来事であったから取り止めた。そんなだから通知を受け取った瞬間から緊張感で気が休まらないでいた。

 

 五月の始まったのに合わせて私は英語の学習に取り掛かった。ドイツに住んでいる間にフランスを訪れて本場のパンやケーキを一目見ておきたい、と思い立ったのが理由わけである。そんな話を月曜日の仕事中に早速フェアリーに話した。彼女は私の話を聞くや否や、頭の中の引き出しから彼女自身のフランス旅行の思い出を引っ張り出してはつらつらと物語り始めた。フランス中を周遊したという彼女の口から飛び出たモンサンミッシェルだのエッフェル塔だのと言う固有名詞に私の好奇心はみるみる刺戟され、話の終わる頃には改めてフランスを訪れておかねばならないという決心がより強固なものになっていた。然しそれはそうと、果たしてマイスターブリーフ授与式にはどれくらいの人数が集まるのだろうか。座席などは決められているだろうか。当時のクラスメイトとは上手く話せるだろうか。

  来週からシェフが有給休暇に入るというので、シェフ不在の間の作戦会議がシェフを中心に休憩室で執り行われたのが火曜日であった。誰がどういった役割で仕事を回すのかという話に始まり、製造工程の大まかな流れの再確認などが話し合われていた間にも、果たしてマイスターブリーフ授与式へはどういった装いが正しいだろうか、黒のジャケットに白のシャツ、グレーのズボンと革靴ではいささかカジュアル過ぎると思われるだろうかなどといった心配が尽きなかった。
 
 
 授与式当日の金曜日になると私の緊張は仕事中からほとんどピークに達していた。仕事中の口数も何時にも増して少なかった。途中で私はアンドレに「気持ちが落ち着かない」と吐露すると、彼は「どうしてだ、素敵な時間の筈じゃないか。誇りに思いたまえ」と私の言いたい事が伝わっていないとも取れる返事が返って来たのであるが、「誇りに思いたまえDu musst auf dich stolz sein」という言葉を聞いて不思議と気持ちが落ち着いた気がした。仕事の終わる頃には同僚が皆其々それぞれに楽しんでおいでという声を掛けてくれた。この頃になるとすっかり楽しみに思う気持ちの方が強くなっていた。 

 

 十一時半に仕事を終え、帰宅した後昼食や身支度を済ませると十四時半にはアパートを出た。授与式の開始は十七時であったが、電車の都合で随分早く出発しなければならなかった。電車の中でも終始落ち着かなかった。折角だから昨年マイスター学校に通っていた頃の事や、ドイツに来てからの七年間を思い返しては、センチメントを味わおうかとも試してみたが緊張感がそれを妨げた。
 
 電車を乗り継ぐ必要があった私は、余裕を持って乗り継ぎの出来るように行動していた。ところが私の乗る筈の電車の到着が結局二十分も遅延した。これでは十七時に間に合わないとなると、さっきまでの緊張感はすっかり形を変えていた。どうしたものかと考えた私は去年クラスメイトであり同居人でもあったトーマスの存在を思い出した。彼の住んでるのはオーストリアであったからひょっとすると今日の式には欠席かも知れないとも考えたが、他に頼る手の無かった私は彼にメッセージを送った。すると直ぐに返事が返って来た。遅刻する事を伝えて欲しいと頼むだけのつもりであった遣取やりとりの末、同じく到着が遅れそうであった彼が私を駅まで車で拾いに来てくれるという心強い話になった。


 結局二人揃って遅れて会場に入ると、既に誰か偉い人が壇上で喋っていた。座席は決められていない様であったので最も近くで目に付いた席に着くと、昨年マイスター学校で大変世話になったフーバー先生とシュテファン先生と相席であった。私達に気付いた二人の先生は体をこちらに丁寧に向き直し、私達は静かに握手を交わすと、それから私は壇上の男の話を聞きつつ全体を眺めた。其々の同伴者も含めると優に一〇〇人はいた様に思われた。その中にちらほらとクラスメイトだった者の顔も認められた。それだけでも自然と自分の頬の持ち上がるのが分かった。 

 壇上で男が祝辞を述べ、モニターにビデオが流れると、間も無くしてマイスターブリーフの授与が始まった。製菓マイスターの合格者から順々に名前を呼ばれた。一人ずつ登壇しマイスターブリーフを受け取り、記念撮影をしてから降壇するというのを眺めながら、ただそれを見ているだけでも気分は興奮していた。皆一様に嬉しそうな表情をしていたのが良かった。その内、製パンのマイスター合格者の順番になった。元クラスメイトが順番にマイスターブリーフを受け取っていく。当時と変わらぬ様でも、実に堂々とした姿に見えた。そして愈々いよいよ私の名前が呼ばれた。ステージから最も離れた所に座っていた私は誰よりも長い距離を、参列者の間を通ってステージを目指した。表情の制御が利かず、絶えず自動的に笑みが込み上げていた。不思議な感覚であった。登壇し「おめでとう」と言う言葉と共にマイスターブリーフを受け取ると、カメラに向かって態々わざわざ改めて表情を作る必要も無いほど緩んだ顔で写真に納まった。撮影を終えるとさらにMと刻まれたピンバッジも受け取った。そして拍手の海に入水する様に降壇し、拍手の海を泳ぐ様に席までの道を歩いた。ドイツ人ばかりの中唯一外国人で登壇した私は紅一点たる事日の丸の如しであった。大変光栄であった。

 席に戻るとトーマスに写真を撮って貰った。そしてその写真をベッカライ・クラインの同僚達とのグループチャットに送るとマリアやアンドレやシェフと言った面々から喜ばしい反応が返ってきたのでそれでもう私は満足であった。
 
 
 それからグループ写真を撮る為にもう一度ステージの方へ行った。クラスメイトが其々にマイスターブリーフを手にして並んだ写真は圧巻の見栄えに違いなかった。並ぶ順番を何だかんだとやっている様子でさえ私の目には絵になる景色に映った。その内マイスター学校のSNSか何かでその写真が見られる日が大変楽しみである。


 そうして一通り式典が済むとビュッフェ式の会食が始まった。食事も然る事ながら先生やクラスメイト達との話を聞いているのが楽しかった。そうして話を聞いている内に当時の事が徐々に鮮明に思い出されて、恥ずかしさや大変さが一時私の胸の内に蘇って少々草臥くたびれた。
 
 当時、大変言葉が不自由であった私を良く気に掛けてくれていた物静かなトムという男と再び顔を合わせられた事が大変嬉しかった。私の拙い言葉に寄り添うように話を聞いてくれる姿はあの更衣室の中で見た姿と服装が違うだけで相変わらずであった。
 
 アリーナは私の座る席に来るなり、新聞で見たよと伝えて来て、それで私はようやく昨年新聞に取り上げられた事を思い出した。目の前のトーマスにさえ言い忘れていた私はその紙面の写真をスマートフォンに映し出し、トーマスや先生方にも見せた。彼女は新聞に私を見掛けるなり直ぐに姉にも見せたんだと言った。離れた所でも忘れ去られる事無くいたという事実だけで私は大変喜ばしかった。
 
 それから当時クラス長の役割を引き受けていた大男のフーバーとも、当時最年少でありながら積極性や堂々とした振る舞いには目を見張るものがあったクラウスとも、皆と其々に握手を交わしながら挨拶をし健闘を称え合えたこの機会は何物にも代え難い場であった。そして私自身もその場を構成する一人であったという事実の信じ難さは当事者である私にしか屹度きっと理解の出来ない事であろう。いや、私さえそれを感じていればそれで十分である。


  またとあるパティスリーのチーフをする女性が、私の隣に座るフーバー先生に何やら相談を持ちかけていた。何でも職業学校の方で製パンクラスだけでなく製菓クラスでもペストリ※2ーの授業を行って欲しいと言うような話であった。彼女の営むパティスリーでもペストリーを十分に取り扱える人員が必要だという話の流れで、フーバー先生はおもむろに私を指さして「彼は良いパン職人だ」と紹介し始めた。すると彼女の方でも、もし興味があったら何時でも来て頂戴と言って来た。私はベッカライ・クラインのパン職人であるが、突然訪れたパティスリーで働くという選択肢に好奇心は僅かでも確かに刺戟された。それから彼是あれこれと話す中で偶然にも、フランスには是非一度行って見るべきよという話になった。私は、丁度考えている所ですと言って、それから彼女自身フランスで学んだ経験があり、彼女のパティスリーでもフランス流のケーキを作っているというので、今度食べに行きますからその際は連絡しますねと言って話を終えた。 

 

 そうして貴重な一夜は過ぎた。あれほど私の中で尽きる事の無かった心細さや不安や緊張はとっくに無かったものとなっていた。帰り道を行く私は、微量とは言えアルコールのせいもあっただろうが頭も心も体もふわふわとしていた。何にも身が入りそうになかった。そのまま闇夜の中に溶け行きそうであった。私はこの感覚を知らなかった。大方式典前の極度の緊張や式典中の感動と言ったものの反動で力が抜けていたのだろう。いずれにしてもふわふわと歩く私の右手にはマイスターブリーフがしっかりと握られていた。


 


(※1)マイスターブリーフMeisterbrief:マイスター資格の取得証明書。
(※2)ペストリーPlundergebäck:クロワッサンなどのパイ系のパンの事。

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※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。


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