見出し画像

月刊コグマ#5 落花流水》進行中・独白》浸透中

 朝、起きると足が寒いことに気が付く。

まさか、昨日までは暑くて眠れないとか思っていたのに、こんなことがあるのかとびっくりした。

その次の日も足は寒いままで、やっぱり冬用のパジャマに戻すか?とか考えてたら、次の日は暑いとかいう始末。

生きづらいったらありゃしないぜ!

美術館へ/ダムタイプを観に行こう

 4月某日。電車を乗り継いで、東京駅まで向かった。この東京駅(丸の内駅舎)は重要文化財に指定されているらしく、せっかくなのでそれを見たいと思っていた。

 今回、この東京駅に来たのには理由がある。大学の課題で、ミュージアム見学に行こう というものがあり、挙げられていた美術館の中から選ばなくてはいけなかったのだが、その中の1つがここ、東京にあったからだ。

 駅近くのすき家で昼食を済ませ、目標のアーティゾン美術館を探す。
Google Mapを起動させ見てみると、道路を挟んで目の前にその美術館があった。想像以上に無機質な四角の美術館だ。ガラス張りの正面が反射して色々なものを映している。
時間になるまで辺りを散歩し、そのハコの中に入った。

 「ダムタイプ」とは何なのか。この美術館を見学するにあたって、向き合うべき一番の疑問はそこだ。

 Wikipediaには、1984年に設立されたアーティストグループ。大学在学中から海外公演を含めた活発な活動を行う。建築、美術、デザイン、音楽、ダンスなど異なる表現手段を持つメンバーが参加し、芸術表現の可能性を模索する。京都を拠点とし、海外公演を中心とした活動を行っている。 と書かれている。

 美術/芸術というのは、何かからインスピレーションを受けて、これを表現したい・これを伝えたい と思う気持ちから始まると考えている。つまり、今回彼らが作成したものも何か伝えたいものがあるのではないか。

 暗い部屋だった。四角い部屋だ。部屋の中にはもう一つのハコがあり、辺りをレコードが囲っていた。いくつものレコードがある。それらからは色々な生活の音が流れてきていた。
水が流れる音。車の走行音。動物の鳴く声。行進曲。
目の前にはレコードだけなのだが、その音おかげか、頭の中には場所のイメージが出来ていた。レコードをよく見てみると、そこには、ItalyTokyoと場所の名前が書いてあった。

 中心にあるハコに近づいていく。ハコの中からはたくさんの声が聞こえた。何語かもわからないその声は、自分の周りを囲っているように何度も囁いてくる。壁には赤の波が這っていて、心電図のようだ。

 先の「生活の音」も併せて考えると、「生活」とは何なのかをダムタイプの解釈として表現した作品なのだろうか。

 中心にあるハコの中心に人だかりができていた。何かが投影されているみたいだ。それが気になり、自分も近づき、覗いてみるとそこには地図が映されていた。

 少し気になり、ハコから外に出て、再びレコードを眺める。国や地域の名前が振られたこれらのレコードには、今、回っているものもあれば明かりがついておらず回っていないものもある。
これはもしかすると、明かりがついているところが中心のハコで現在見ている地域とその周辺のところなのではないか、と思った。

 さらにこのダムタイプを歩いて回っていると、奥に部屋があった。この部屋には上にハコがある。みんながみんな上を見上げて、ハコを下から覗いている。自分も一緒になって覗いていると、たくさんの言葉が散らばっていた。急に赤い線が動き始め、一つ一つを確認していくようにその言葉に触れていく。

 まるでその言葉が生きているのかを確認しているようだった。今、話題になっている「言語の消滅」を現しているのだろうか。

 部屋を出るところに一つの冊子が置かれていた。今回のダムタイプの作品の説明をしているようだ。要約するとこうだ。

 地球とは何か。どんな形か。何でできているのか。大陸とは何か。海とは、島とは、山とは、火山とは。
空間を漂う信号から、何を情報として受け取り、問いとして引き受けるのか。今どのような想像力を持っているのか。
世界の知覚する方法を振り返りながら、同じように空間を彷徨う人々を目撃する。

 今回の作品には、授業で習ったような「侘び寂び」の感覚があるように思った。黒だからこそ、足りないからこそ見えるものがあるということを感じた気がする。

 生活の音は自然の音。空間や明暗の美は、侘び寂びに通じる感覚でもあるだろう。世界で活躍している彼ら、ダムタイプの作品が日本の美を行使して認められているというのは、なぜかどこか誇らしいものだ。

 すがすがしい気分になって、第2の目的であった東京駅を見に、美術館を後にした。この男はまだ、この後甘いもの(アイス)を食べたいがために上野まで行くことを知らない。


MUG

 「過去に使っていたものを買い替える」という行為に、少し抵抗感を覚えてしまう現象。

いや、「長い間使っていたものに愛着が湧いてしまう」現象と言ったほうが、分かりやすいだろうか。

 例えば、このすぐ傍にあるシャープペン。これは中学校の頃から使っていたものなのだが、今はもう壊れてしまって使い物にならない。
しかし、なぜか捨てるに捨てられないのだ。

 今回はそれにまつわる話を… いや、直接的には関わらないのだが、とにかく書いていくことにしよう。

 そのマグカップは物心が付いた頃には、正確には、自分の幼少期の記憶の中では、すでに家にあった。
シンプルな白にスノーマン(The Snowman)の描かれたマグカップ。

そのキャッチーなデザインから見ても、とても扱いやすいものだったことには違いない。

しかし、誰が使っているというわけでもなく、長い間食器棚の中に入っていたのだった。

 当時の自分がそのマグカップを使いだしたのは、小学校の時からだ。
とても寒い日のことである。

親が、牛乳を温めて砂糖を入れたホットミルクを作ってくれた。
湯気の立つミルクと、ほのかにただよう砂糖の甘い匂い。

 そのホットミルクを、息でフーフーと冷ましながら少しづつ飲んでいく。
すると、そのほのかな砂糖と温かいミルクが口に広がっていき、体の芯まで温まっていくのを感じた。

いや、ほっとした、というのも付け加えておこうか。
(ホットミルクだけにねッ!)

 それ以来、冬の寒い日にはこのホットミルクを飲むのが自分の中で定番になっている。それも、このスノーマンのマグカップで飲むことが。

これで飲むと不思議とこのホットミルクが普段の数倍おいしくなっている気がするのだ。

 そのマグカップとの思い出はこれだけじゃない。
去年の月刊の何月号かにコーヒーにハマっている、という話を上げたのだが、その時にも、このマグカップにはお世話になった。

自分はどんな味の、香りの、酸味の/苦味の、コーヒーが好きなのか。
いろいろな模索に付き合ってくれた。

そのように考えると、小学校の頃から高校の終わりまで付き合ってくれた自分の身の回りのものでは珍しい存在なのかもしれない。

 3月のある日。自分は友人と一緒にとある遊園地に来ていた。

色々なハリウッド映画の世界がこの遊園地には詰め込んであるらしく、聞いたことのある映画のものや、有名なヒーローのものまでたくさんある。

 友人の一人が妹にお土産を買うということで、我々はスヌーピーのエリアへ向かうことに。
彼らが買い物を済ませている間、適当に店内を見て回っていると、通りがかりに一つのマグカップが置いてあった。

普段使っていたものと同じような大きさで、入る量はそれ以上に見えるほどのものだ。

 寝ているスヌーピーとウッドストック(あの黄色い鳥)が描かれたそのマグカップは、自分のこれで飲んでみたいという欲を掻き立ててくる。
そして気づくと、自分はレジに並んでいた。

 そんなことがあり、大学のため引っ越した後は、そのマグカップを使っている。

じゃあ、スノーマンのマグカップはどうしたのか、という疑問があるだろう。問題はそこだ。

ここへ引っ越してくる際に、それを捨てることが出来ればよかったのだが、どうにも手放すことが出来ず、食器棚を開けるとそのマグカップも一緒に入っているのだ。

ちなみにいま、そのマグカップは夜、水を飲むときに使っている。

コーヒーや紅茶などはスヌーピーを。
水やたまにお茶を飲むときはスノーマンを。

これからはこのように、どちらも使っていくことにした。
先に挙げたシャープペンのように、もう使えないということはないのだから。

 と、結局こんな感じで買ったものや人から貰ったものは特に思いがこもって捨てられない。

 これを以前、友人に話したのだが、彼は断捨離が得意な人間のようで、「いつか君はゴミ屋敷にでも住んでるんじゃないか?」と少し馬鹿にされた。

まさかと思いつつも、そうはならないという確証もないので、とりあえず使えなくなったシャープペンをハコへ入れた。


自己嫌悪という呪い

 ふとしたときに、急に心が真っ黒になっていくような感じがして、どうしようもなく自分を責めてしまうことがある。

ずっと、だ。
小学生からこの真っ黒になっていく感覚に陥ることが何度もあった。

もちろん、自分がポカをしてしまったときはもちろんなのだが(”ポカ”も最近では死語かもしれない)、それを”してしまうかもしれない”と考えるだけでも、囚われてしまう。

期待を寄せられているなら、なおさらだ。

気負う度に周りの目線が気になってしまう。上手くやれないかもと責めてしまう。
すると周りが見えなくなり、自分の中の黒と対面することになる。

 これをひとえに「自己嫌悪」と括るのはいかがなものかと思うが、元をたどると結局は自分を責めているので自己嫌悪と言ってもいいだろう。
それに、これは昔からずっと抜け出すことが出来ていないのだから、これは呪いだと思う。

自己嫌悪の呪いだ。

 じゃあ、ずっと君はそうやって自分を責めているのか!
と考える人もいるだろうが、それは違う。

ずっと前から言っているが、僕は僕が好きだ。

まだ18のガキが言うのもなんだが、今までに生きてきた生活の全体を自分は後悔していない。
(もちろんその生活の1部1部を見るといくつもの後悔が転がってはいるが)

 ただ、自分を好きだと言っているのにはもっと大きな理由がある。

過去に何度も”友だち”という関係に固執して失敗した、というような話をしたのだが、その失敗以来、より他人の気持ちを考えるのが分からなくなってしまった。

人の心は複雑で、幸せだけど満たされてないとか、行動と気持ちは何も一緒なわけじゃないとか。そんなことばっかりだ。
そもそも、他人の気持ちなんてわかるわけもないのに相手の気持ちを考えろなんておこがましい気もする。

今は仲良くしてくれている人たちも、腹の内では自分を嫌っているのかもしれない。

そんな考えがずっと頭の中を巡った結果、
誰もが自分を嫌ったとしても、自分だけは自分のことをずっと好きでいてくれたら、全員が自分を嫌うという状況は来ないんじゃないか。
という結論が出た。

自分を好きだ、と言っていないと一人は独りになっていつか自分が壊れてしまう気がして、そのように考えるようになった。

 今は、そんな負のスパイラルから脱した、というか結論人間関係なんてそんなもんだと、考えることを止めてしまったので、
自分の中には、自分を好きだという気持ちしか残っていないことになる。

 自分に自信が無いことは、自己嫌悪というのだろうか。自分を信じてあげられないことは、そうなのだろうか。

この自己嫌悪を巡る話は、人の心を探るのと同じように、いつまでも解決することの無いもののように思える。

羨ましいと思う気持ちも回り回って、出来ない自分に対する自己嫌悪のようにも思えるし、その他にも、自分を責めてしまう場面なんて、生きていていくつもあるだろう。

清濁併せ呑む」ように、自分の良いところも嫌なところもどちらも愛せるようになりたい。
けれど、嫌いなところを見つめてそこを直せるようにもなりたい。

 願望があるからこそ、
この呪いは続いていく。

ならば自分は、この呪いを受け止めながら超えて行く。
そして、願望を少しづつ叶えていけるように、自己嫌悪するその瞬間をある意味"大切に"していきたい。


Child Step

 どうにも置いて行かれているような感覚をよく感じるようになった。

最近、友人や先輩方のインスタグラムなどをよく見ることがあるのだが、本当に自分と 同い年/一つ上 なのか?と疑いたくなるほど、世界が違うように思える。

 暇なときはとりあえず、ルービックキューブとかレゴのようなブロックとかを触って遊んでいる。
もちろんこれに何か意味があるわけでもない。

強いていえば、何かからインスピレーションを受けて、これを表現したいと思い、ブロックから作ろうとする、ということはあるが。

手持ち無沙汰であることが好きではないときのほうが多いからなのかもしれない。
(その「手持ち無沙汰」な時間が好きな時もある。)

 食事にお金をかけるよりも、衣服にお金をかけるよりも、趣味にお金をかけたほうがいいんじゃないか、と思うことが多々ある。

もちろん、食事や衣服にお金をかける人たちを軽蔑しているわけでも、批判しているわけでもない。
なんなら、そっちにお金を使ったほうが、より”大人らしい”とも感じる。

けれど、自分はそれらよりも、いろいろなジャンルのCDや、気になった映画や、漫画や小説や、ゲームやおもちゃなどに使うと思う。

そんなところが”子供っぽい”のだろう。

 実際ついさっきだって、CDで星野源の「Week End」を流しながら、おぼつかないステップで踊っていたし、階段を一つ飛ばしで歩いてこけそうにもなった。

 そもそも、毎日の生活で自分が”大人ぶっている”からこそ、こんなふうに子供から抜け出せないのかもしれない。

他の人はどうなのかは知らないが、周りの目があるとどうしても自分が上手く出せない。
一人でいるときや、多少は話せる仲なら自然と素が出てくるのだが、基本は中でうずくまっている。

たぶん、同じクラスになった人たちの中には、僕が色々な曲を聴くことなんて知らないだろうし、下ネタが大好きなことも知らないだろう。

くだらないことで馬鹿笑いしたいし、女の子なんて途轍もなく大好きだ。

けれど、そんな自分を生活の中では隠してしまう。
(もちろん隠したほうがいいものもたくさんあるが)

常に冷静でいて、周りの雰囲気や顔をうかがっている。
ホントは無理だと思っているのに、相手の気持ちを考えようとする。
相手に期待しないように、と何度思っても結局気付けば期待している自分がいる。

ぶっている自分」が嘘だと言っているわけじゃなくて、これもしっかりと自分なのだが、
いつも心の中で好きほうだい言ったりやったりしている自分と比べるとあまり好きではないのも事実だ。

 そういえば、なぜこの話を書こうと思ったのかの理由を今思い出したのだが、
ある日ストーリーを見ていると、車を運転しているという旨のものを同じ日にいくつも見たからだった。

自分は免許証を持っていないおろか、そもそも自動車学校にさえも通っていない。
引っ越しをするから今はいいや、と思っていたら周りはどんどんと免許を取っていったらしい。

 ……とてもくだらないことで、自分は子供っぽいだとか悩んでいた気がする。

そういえば、ふと思い出したのだが僕にも大人っぽいところがあった。
これならば、周りに胸を張って大人っぽいと言われることだろう。

それはなんと、
毎朝、6:00に起きることを徹底しているのだ。

友人にこれを話してみると、
「そういうところが子供っぽいんじゃないの?」
と言われた。

大人っぽくなるにはまだまだなのかもしれない。


浮遊感

 「恋」とは何なのだろうか。

それはとても不安定で、どこまで行っても雲のように掴むことの出来ない、不思議な感情のように思える。

 5月から6月にかけての嫌な湿気は弱った心に作用するのか、いつもは気丈にふるまっていても、どうもこの時期は溜まった「辛さ」のようなものを誰かに吐露したい気分になる。

もっと分かりやすく言おう。
「恋人」という関係が羨ましく感じるのだ。

自分にはそんな経験なんて少ないので、まったく想像もできないのだが、この恋人という関係は、互いを支えあえる関係だと感じる。

互いが互いを大切だと思うからこそ成り立つ関係だと想う。

だからこそ、こうやって僕のように一人でたくさんため込んでしまう人間からすると、誰かに自分の弱さを吐ける、というのが羨ましい。
(実際、他の人がどう感じてるのかは知らないが)

まぁ、もし自分にそんな人が出来たとしても、
「辛いときに辛いと言えるのか」と考えたときに話せるイメージが湧かないのはご愛敬。

 そんな自分も未だ青少年の端くれ。つい最近まで青春の学生時代を生きてきた若者クンだ。少なくとも恋の1つや2つはしてきた。

それを通して大きな疑問が生まれた。
それは、「恋」とは何なのか、ということだ。

誰かを好きになること、という意味だけでは片付けることの出来ない気持ちの在り方だと思う。

どうしてあんなに愛おしく感じるのか。どうしてもっと一緒にいたいと願ってしまうのか。相手がいつまでも幸せであれと祈るのか。幸せにしたいと思うのか。

正直言って、好きになった理由なんてわからない。
自分で探ってみたり、友人に聞かれたりして、答えを見つけようと取り繕ってみるけど、それは違って。

上手くは言葉にできないが
ただ、気付いたら自分の中で大事な存在になっていた。

相手が笑うと自分も嬉しくて。相手が辛いと自分も辛くて。でも、どれだけ近くにいても力になれないもどかしさがあって。
自分に振り向いてくれるとなぜか厭に自惚れてしまう。

けれど、気持ちが内にこもってしまうのは
ただ、伝える勇気が無いだけ。

 この気持ちは全部、孤独から抜け出した先に見えるものだと思う。相手のことを見ようとするから、理解して、知ろうとするから、なるものだと思う。

どうしようもない自分を、どうしようのないままにしておきたくはなくって、できる自分を見せようと、どうしようのないままぶつかっていく姿。

今、感じている気持ちのすべてを文字にできればいいのだが、考えていくごとに気持ちが絡まって、表現しがたい思いに苛まれて、もどかしい。

相手の気持ちが分からないから、知りたいと思う。けれど、もし自分を嫌っていたらと考えると、知るのが怖いと思う。
相手の気持ちを読むことが出来たら、どんなに便利だろうかと考えたこともいくつもあるだろう。

これ以外にも抱えた気持ちはいくつもあるだろうし、その中には喜びもあれば痛みだってある。幼くて、醜くて、どうしても信じることの出来ない自分を中心にして。

この思いは全部、恋だと思う。

 後にこの気持ちをどうするかは個々人の問題だ。
僕はずっと恋をするたびに後悔の連続だから、好きになった気持ちをくさしてダメにしてしまったのだろう。

自分が劣っていて、相手と見合うはずがない、だとか。相手にとって幸せと感じる何かをしてあげられる気がしない、だとか。
そんな、損得勘定にも近しいことを考えて結局、踏み出せないのだから。

それに、とても情けないが、「振られたくない」という思いだってもちろんある。

 こんなことは僕が言うべきじゃあないが、
今、君の隣に、大切にしてあげたい人がいるなら、思いっきり大切にしてあげるべきだと思う。

もちろん甘やかせと言っているわけじゃなくって、一緒に歩いていけるように努力していくべきだ、と言っている。

そしていつか、本当の意味で、二人になって仲良く歩いていく姿を、生活している姿を実現させてほしい。

今、好きな人がいるとして、
その恋が実ったとしても、実らなかったとしても、”好きになった”という気持ちは本物だし、それは自分の中で生き続ける気がするから、僕は大切にするだろう。

その気持ちを忘れるまでは。

 恋は、不思議で、不安定で、雲のように掴めなくって…
何度も何度も探っていくたびに、形が見えそうで見えない。

定まらない思いがこの気持ちの在り方のように感じる。

言葉は矛盾するが、
この誤魔化せないあいまいな感情が僕は大好きだ。



どこへも行けない僕は。



まとめ:《ハナスモノ・ノコスモノ》と綺麗事

 手放せない関係が目の前にあるとしよう。

その関係は、共に写真を送りあったり、近況報告をしたりしていて自分の心の拠り所になっていた。
付き合ってくれた相手には感謝してもしきれない。

去年までは同じ場所で生活をしていた。
しかし、学んでいるのは互いに全く違うものだし、そもそも、過ごしている場所も違う。

そうなると、自分は、先に挙げた話よろしく、自分が関わるなんて申し訳ないという気持ちになってしまう。
今、関わりたい友人がいるだろうし、顔も合わせられないのに、まだ連絡を取って迷惑に思われないだろうかと、嫌にぐちぐちと考えてしまう。

 こうやって過去ばっかり振り返っていると、だんだんと自分が嫌になってきて、ならもういっそのこと、その連絡先自体を消してしまうのはどうだろうか、と思いつくのは自分の悪い点だ。

以前、実際にそれを実行してしまった結果、痛い目を見たのは自分自身だったのだ。

そんなこんなで、この関係をハナスものかノコスものかを最近は何度も悩んでいる。

ノコシておきたいが、ノコスと自分はうじうじと考えてしまう。
けれど、ハナスとなると、もう連絡は取れなくなるかもしれなくて、自分はそれが嫌だ。


結局、自分はノコス道を選んだ。

もっと僕は話したいし、何より良いと思ったものを共有したい。
そう思ったからだ。

嫌われるのは怖いけど、もしかしたらもう顔も見ないかもしれないし、
自分自身にもし、写真とか近況が送られてきたら嬉しいんだから、きっと大丈夫と自分を奮い立たせて。

しかし、うじうじ君はいまだ僕の中から消えてはくれてないので、とりあえずはコイツと戦うことになりそうだ。

……まぁ、例えばの話ですけどね。
もし、こんなことになったらあなたはどうしますか?ってやつ。

綺麗事を言って、自分を誤魔化して、このままで居続けるのも、違う道を選ぶのも結局は自分次第。
なんにせよ、タイミングが重要だとあらためて、思った。

結局つまるところ、これは決意表明だ。
ずる賢い自分にとっての。



 と、いうことで今月の月刊はいかかでしたか?

今回の月刊はどちらかというと、自分の考えを話すものが多かったように感じます。

やはり、人との関わりが多いと自然と考えてしまうことも多くなるし、なんなら、浮遊感でも話した通り、嫌な湿気のせいなのか低気圧のせいなのか分からないが、それがよりディープになって行ってる気がする。

何度も何度も、「人の気持ち」についての悩みに直面して、そのたびに、「他人なんだから知ろうとする行為自体おこがましい」って結論はどうしたと思い起こす日々。

でも、前を向かなきゃ何も始まらないので、綺麗事だとしても、自分にかけていかないと、と思いましたね。


 MUGの話について、注釈を入れるとするなら、行った遊園地はユニバーサルスタジオジャパンのことです。

特に明言もしてはいませんでしたが、雰囲気とか、ハリウッドがどうこうとかは書いていたので、ピンときた人もいるかもしれませんね。

Googleの画像検索とかで、「USJ スヌーピー マグカップ」と検索すればでてきましたよ。
水色で、スヌーピーが横たわっているデザインのヤツ。

ね?可愛いでしょ?


 全部、色々な方向に延びる自分の思いを表現してみたつもりです。

雑誌ダ・ヴィンチの5月号で、ずっと追っていた、そしてインスピレーションを与えてくれた「いのちの車窓から」が終わってしまいました。

彼は、一度倒れてから、自分のことをしっかりと見るようになり、だからこそ今の彼がいる。

今回、終わってしまうのも、たぶん、「多忙だから」。

体に気を付けて、毎日を生活してほしい。
色々なものに押しつぶされないように、とにかく幸せでいてほしい。

だって僕は彼が大好きだから。



 どこかで書いた気もするが、とりあえず、
生きることを諦めてしまう
人が最近は特に多いように感じる。

それを安易に止めるような行為も早計だと思うが、だからといって、諦めることが良いことだとは思わない。

そんなニュースを見聞きするたびに、こっちも苦しくなるからだ。

何があって、何を思って、何を後悔して、
その1歩を踏み出したのか。

僕たちでは本当のところまで推し量ることは出来ないが、想像はすることが出来る。
その痛みから、諦めたら何が残るのかをしっかりと考えてみることが出来る。

 僕だって、自分がいなくなったところで心配する人なんていないだろうって深く考えてしまうときもあるけど、よくよく考えてみればいるもんだ。

例えば、今日話したあの子。

絶対に、どうでもいいなんて思わない。
それにもしかしたら、自分のせいかもしれないって思ってその人まで同じような痛みに苛まれてしまうかもしれない。

例えば、関わってきた先輩/後輩。

その人だって、君のことを近くで見てきた人たちだ。
絶対にひどく悲しむと思うよ。

そして、仲良くしてくれた友だち。

いつの友だちでも良い。
いつかはまわりまわって君の今を耳にするだろう。
その時にきみのことを考えるんだ。

必ず。

僕たちは人間だから。
想像をする力があるから。

とにかく、最近とか、この時期にはそうやって生きることを諦めようとする人たちばかりだからさ。なんか不思議と辛くって。

今、これを見ている君には、一度考えてみてほしいってそれだけ。


上手く言えないけど、
毎日はいろんなことであふれてる。

迷いや喜びや死だってもちろん。
ダンス、セックス、ラブだって。

それをたくさん吸収して、この月刊は続いていく。

君の生活も続いていく。

いつか僕が君とまた出会うまで。
(出会ってからもまた続いていくけどね!)


と、いうことでまた来月!!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?