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宮沢賢治と自分と ー君を超えて行けるかー 第一章


『藝術の存在』

藝術なんてものは心のリズムの中からしか生み出されない。
音楽や踊りといった動的な藝術だと話が変わってくるが、その中で純粋な文藝は。
それが自分を癒す為。どこかやるせない苦難にぶつかったときに自分を納得させる為につくられたものか。自然や環境への感動。自然の畏怖や美しさ、或いは高潔な人と出会った喜びといった敏感な心の動きを綴った二つに分類されるだろう。
その二つに共通して、作品を生むにしろ、鑑賞するにしろ、自身の心が共鳴する事が最も尊い事だ。
そしてその共鳴が長い時間、自分のなかに残り。何度も何度もその作品を振り返って考えたり、物思いに更ける事のできる作品が藝術として最も価値があるであろう。

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『実感』
皮を剥く。いらない皮を剥いていく。
この瞬間、自分がより自分らしく成る為に。ただ呼吸に身を任せて、感情の赴くままに生きたいものだ。

真面目に、正しく生きる事に拘り過ぎたな。休むときですら、真面目に、正しく休もうとしていた。
融通の効かない人間だった。

そもそも真面目さや正しさの中に。自分の実感や、地に足の着いた感覚なんて無い。そして、実感が無いから心が迷子になる。

正しさなんて、世間や学校の教員、会社の上司が言っている事。そしてそれらを考慮して、自分の頭で考えている範疇(はんちゅう)のものであって。なぜみんなそんな実態の無いものに重きを置いて、焦点を合わせて行動しているのか理解ができない。
ただ風が吹いている音や、花が咲いている事の方がよっぽど尊い氣がする。

頭だけで考えていると嫌な人間、行き着く果てはサイコパスか。精神的に病むしか道は無いのだから。
もっと実感で、五感の感覚を研ぎ澄ませて、自然に生きて行きたいものだ。
私を含めた現代人にとって実感が無いことは、今世紀の現代人にとって最も大きな悲劇の一つだろう。


『背理』
冬、凍てつく寒さのなか、能登の総鎮守。氣多大社に御参拝した。
雪の参拝は辛いものがある。
足がかじかんで痛寒い。
そうは言っても入らずの森の霊氣は素晴らしいもので、一瞬で浄化された。
精神の浄化に際する芸みたいなものが精神科医にはあると思う訳で。
直近だと自分を制御してこそ、精神的自由に発展できる面もある事に氣付いた。最近はこれまで自分が生きているうちに積み重ねてきた柵(しがらみ)という皮を剥く事が多い。
精神的自由を突き詰めて酒に溺れてみたり、サウナに入ったりして限界を知って、精神的な開放に向かいやすくなった。

精神的な自由をある程度、知ってきたから。良い意味で自分の人生を主体的に生きるために必要な制御範囲が広がった。

多くの人は精神的な解放に、あるいは精神的な制御の方向に、どちらか一方にのみに力をかける。
それは愚直に自分の目指すべき所を向いているように見えて、実は遠回りだ。

本当の真理というのは大概が背理的だ。
そこを知らずに、根性論や目的にばかり目をとられていては大成には中々届かない。

それは自分では氣づきにくいが、大きなパラドックスとなろう。


『若さ故の過ち』
若さ故の過ちというのが一番辛い。結局、自分の幼さやワガママが招いた事なのだけれども。
教訓にはできても、決してそれを救う事ができない。

社会全体に余裕がなくて、つまらない間違えでさえ、躍起になって批判しようとする風潮があるのも問題だろう。

その割に些細な事に氣をつけて丁寧に生活する事を知らない人が多いから、この世の中は末期なのではないか。
ものを直して丁寧に使う、丁寧に扱って長持ちさせるという考えが抜け落ちている人があまりにも多すぎる。

どちらも壊れても取り替えが効く事と、そもそも物の構造が分からなくなっている事が招いた事だろう。

意識のある無しに関わらず、本当の技術指導というのはそういった思想をもってこそ、初めて生活に結びつき、個人の手に馴染む筈なのだが。
それを分かっている人が少なすぎる。

ただ知識を伝える事、そしてそれを丸暗記させる事を技術指導としたところで。人間がコンピューターの劣悪品になるだけだ。
ただ表面上話を合わせるだけでは無い、もっと真に感性の豊かな人間が増えるよう、温かい環境をつくりたいものだ。

『伊良湖岬』

伊良湖岬に行った。柳田国男『海上の道』の舞台であり、柳田が一月過ごして民俗学を着想したとされるあの伊良湖岬だ。

あそこはべらぼうに良い所だった。海を渡る蝶や鳥達の楽園だ。伊勢湾と遠州灘とを分ける境界に張り出した、そしてその影響で独特の波が起きる伊良湖岬。黒潮の影響を受け海産物や南国の木々、花々が栄え盛る伊良湖岬。

その自然と生活から民俗学が生まれたと。これじゃあまるで人間は自然から貰ってばかりで対して何も生み出していない様じゃないか。
私の文章も含めて。

考えてみれば科学や物理も、自然現象にあれこれ名前を着けて認識して、その法則を応用させてあれこれやってるだけでちっとも偉くないのかも知れない。

私は自然主義ではないが、機能主義も構造主義もそこへ帰着する要素が幾らでもあるから恐いな。

自然と人間の感情の有り様をどう考えていくか、難しい所だ。

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『伊良湖にて』
夕焼けが沈むのをずっと眺めた。
ただただ冬の空氣の清んだ青空と黒い雲とのコントラストが、黄色や赤、藍や群青色になり、黒に移り変わるその瞬間を見ていた。
ただただ冬の大荒れの海風を顔で受けながら露天風呂の中でその風景を釘付けに眺めていた。
こんなにも贅沢な時はいつ振りだろう。
都会に居ると無意識のうちに何かから指図を受けているような氣分になる。時間に狭まれ、他人の心に無意味に敏感に反応してしまう。
ただ、雲が流れていく。太陽が世界をて照らし、ある対象を輝かせている事がどれほど尊いものだっただろうか。
伊良湖岬。学問が始まった場所は全てが零ベースなのかも知れない。時間も自分が人生で良くも悪くも蓄積した観念も、心的状態も、頭の中も全てが零へ戻っていく。
ただ一つ分かることは自分の学問や芸術は豊かな自然と、そこから来る精神世界の豊かさの中で育まれるものだった。
私はここから新しい世界を構築して都会で生きていかなければならない。
破壊と再構築なのか、破壊と統合による次元転移なのかは分からないが、それが今の私の命題だ。

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『迷走』
確かに植生が違う。土地というのは不思議な程に人の心に作用する。
人間なんてのは不可解だ。現代人に信仰という概念は皆無に等しい。ただ、信仰を無くして地に足の着いた人間というものは育たない氣がする。
戦後、しっかりと理念を持った人間というのは一部の地域を除いて無くなった。
そういう意味でGHQ の戦略は成功したと言える。
本は読んでも薄っぺらな人が多くなったのは、どうも人と土地との繋がりが弱くなってからのように思える。
伊良湖は氣持ち良かったけれど、対岸の伊勢は微妙だった。
天皇崇拝はどうも全てがおかしくなる傾向にある。
最も私も、最近は頭が動きすぎておかしかったから良くない。
時間は人を狂わすから怖いよ。
そこに対する心と身体の居場所をつくる事が先決だ。

『頭と心の葛藤』
三島由紀夫は土地からインスピレーションを得て作品を書いていた。それも面白い現場を頭で考えて探して書いた。
『潮騒』なんかが有名だろう。
人間、どうしても過去の人間関係や癖、育った環境といった柵(しがらみ)に囚われてしまう。吉本隆明なんかは抜け出そうとしてもがき、ある程度抜け出せたが、癖みたいなものは残った。
思考には癖があるから怖い。それは時として身を滅ぼす。
心のままに動く事が大事だが、そもそも心とは何なのか。
化学的には電流である。波動であるくらいの答えにしかたどり着けない。
分からん分からん分からんらん
分からん分からん分からんらん
宮沢賢治は宇宙を見ていた。私は何を見ているのか。
強いて言えば面倒臭い人が好きだ。岩手県は面倒臭い人の宝庫だから良い。
大阪や仙台なんてのは嫌いだ。建前や勢いの良い事、都合の良い事ばっかりで中身が無い。すぐに風で飛ばされて何処かに飛んでいきそうな人ばかりだ。
学問は好きだ。好きだが程々にやるのが良かろう。どうも今の学者は知識の切売りで生産性がない。
その点、岩手は日本人やっていない人が多いから偉いな。



『事を成すうえで重要なこと』

つくづく思うが、事を成すうえで一番重要なことは息を詰めないようにする事ではないだろうか。

人間、大概の事はやろうと思えばできる訳で。ただ、息が詰まって変に緊張した状態が長く続いたり、自分にとって居心地が悪いと感じる状態が長く続くと、人間途端に弱ってしまう。

そうなると感性を鈍くして、心を捨てて社会の底辺を這いつくばってやり過ごすか、自分の魂と仕事内容と拮抗による効率の悪化、最後には疲れて倒れるかしかない。

そこで自分にとって息を詰めすぎない環境を造りだすか、或いは息を詰めすぎない環境に移るかが大きな問題となる。

内面的には自分を高める為の精神活動、良い芸術や文学、音楽に触れ。自らも文章や詩、絵画を創作したり、音楽を奏でるのが良かろう。

外面的には、上記の内面的活動をヒントに自分の生活を選び、造り上げるしかなかろう。

最も内面的な精神を磨き育てるところがあって、外面的な活動が付随して起きる事が人間にとっては最良だから、内面的な感性を持って芸術活動や自分の氣の触れた分野に挑戦するのが近道であろう。



『目指す場所』
 
宮沢賢治が見ていたであろう、芸術、学問、宗教が交ざり合った場所を探している。
 誰もそこを目指さないし、氣にも止めない。そんな世界が在ることさえも、もしかしたら知らないのかも知れない。
だけれども、本当に困っている人に届く言葉はそこにしかないから、そこを目指して歩き続ける。
ここまでの道もたくさんの人を傷付けてしまった。そして、自分も傷付いてきた。
私たちは人に言えない痛みを抱えて生きている。
それを少しでも緩和させる為に、この涙が枯れようが、前へ足を進めなければならない。感じた氣を音楽に変えて、科学に変えて、宗教に変えて、芸術に変える。
その円環の中で私は昇華していく。蒼く燃えている。
生まれ変わる中で高次の自然や視線を獲得していく。
賢治の目指した世界を見る為、私はそこに登っていく。
 

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『疎外感と実感』
疎外感と実感の特異点をどう探っていくか。
精神的に納得できていないが、仕方なくやっている事と。自分の実感を持ってできる事との特異点を探している。
大概の仕事なんて傾向と対策で何とかなる。

そうは言っても実感の無いことはやりたくない。
この悶々する日々は早く終わらせたいな。
まあやっていく中で掴むしかないか。
考えてみれば、人間が「実感」を捨てて学問を考え始めたのなんて近代に入ってからな訳で。
時代は逆行しないから、強いて言えば科学や学問に実感をどう取り入れていくかが人類全体にとって大きな課題だ。


『帰路』
霊山を歩いた。
冗談抜きで死にかけた。
今日一日で六時間半ほど、歩くか、登山か下山をしている。
なんでも「役行者(えんのぎょうじゃ)」が吉野山金峰山寺や修験道を開設する前に三年間、葛城山と金剛山にこもって修行をしたらしく。
彼になったつもりで修行の道を歩いた。


確かに山を歩くというのは全身を使うものだ。足の踏み場を考え、身体のバランスを取り、時に大きく足を上げて前に進む。
それはある意味、自然環境や自分の身体の調子に身を任せる、無我の修行に近い。

虚空こそ調和のヒントだ。
無我の修行なしに、生命や大地、環境の調和などあり得ない。
何故ならその中でしか純粋にものを見ることができないからだ。

鴨族の事も忘れてはならない。
葛城山も金剛山も、極端に乾いた砂地もあれば、極端に湿った粘土質のところもある。
鴨族は雷を使って土壌改良したり、安倍晴明のように氣を持つものがいたりと、実に自然との関わりの深い民族だった。
彼等の出所が熊野なのか当地なのかは分かっていないが、葛城山や金剛山の自然がかなり彼等に影響し、何らかの技術革新を促したのは明らかだろう。

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『青春とは心が痛いものだ』
人間、縁がない場所には行かないからな。
正確にはきっかけが無いと通り過ぎる。


十年以上前の危うい高校生を描いた漫画の舞台が信州善光寺の近辺だったな。
危ういっていうのは突然、何か、稲妻にでも撃たれたように何かにのめりこんでしまって。そのままそれに依存してしまう、という意味の危うさだ。
高校生で危うい。面倒臭い人っていうのはとても偉い事だよ。
のめりこんで努力して、傷付いて。自分自身やまわりと対話していく中でしか、人間として成長できないし。何より自分に自信なんて持てない。
努力のない自信なんてただの虚栄だ。
努力でも、みんな効率の良い、カッコいい努力の話は好きだけれど。危うい人の努力の話は嫌いだよな。
実は危うい人が他人に言えないような氣持ちを抱えながらする努力が一番凄かろう。
最も今の世の中。面倒臭い、危うい人を排除する傾向にあるからあれはいただけないな。


『イラストと印象派』
小布施にある「葛飾北斎美術館」に行った。
イラストと印象派との交点が難しい展示だった。
イラストというものは道路標識やピクトグラムではないが、分かりやすくその場の状況を伝える、意味の提示のようなもの、「デザイン」で。

印象派というと、写真の如く現実に即した精巧な絵を描くことを良しとする学派とは違い。光や空氣感、風などの環境を含めた絵画や、心の中で見た風景や絵のモチーフに対する想いを含めた絵画を描こうという「芸術的なもの」である。
その二つの、ある意味逆のものが交わる中において人間の精神の難しさを感じる。
まあ、人間。異なる二つのものが同居しているのが当たり前な訳で。白か黒かあんまりとやかく言うものではないなと自分で反省した。
ただ、白か黒かに拘ってしまいがちな科学の子。現代人だからこそ、デザインと芸術の特異点、新たな可能性を見つけるきっかけが必要ではないだろうか。

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『芸と技術』

芸というか技術というか。
そうは言っても技術を知らないと対処できない問題も多くある訳で。
技術を学ぶと共に。精神的な納得、地に足の着いた、手に馴染む所まで駒を進められたら良い。
カール・マルクスの『資本論』というのはその名の通り、ものの価値を考えようというもので。別に社会主義を目指すものではない。
吉本隆明いわく、資本主義が進み、衣食住に対する消費がそれ以外の消費を越えれば社会主義になるというだけの話だ。
進化論と機能主義の手みやげみたいなものだよ。
別にカール・マルクスの技術を学ぶのは良いが。技術は道具であって未来の予言書でもなければ、人生を決める為の聖書でもない。
技術はあくまで技術である。

『実感』
完璧をなぜ人間は求めるのか。
あんなものは無知な上司や教員が自分の立場を権威付ける為に騒いでいるものであって、大して意味はない。
そうは言っても完璧に飲まれてしまった自分が居た。
昨日までそれでノイローゼになって、弱って風邪にもかかり丸一日半寝込んだ。
昨日の夜から三〇時間は寝ているもんだから記録更新だろう。
ここまで寝倒すと、パソコンで言うところの強制シャットダウン、再起動みたいなもので。生まれたばかりの赤子のような氣持ちで物事に取り組める。まわりに人が多いとそんな氣にも中々成れないから苦しいものだ。

ただ目の前の景色に感動する。
学ぶことに感動する。赤子にとって世界は感動に溢れている。
ただ目の前の仕事を忙しくこなす事や、知識を詰め込む事だけでは冷たい世界しか生まれないから、実感として前に進む。
自分の身に入らない経験なんて糞食らえ。そんなもの詰め込んでも、ただ自分の中身が分からなくなるだけだ。
そのうち自分が何を大事にしていたのか、何が好きだったのかも分からなくなる。
ただ真っ直ぐ自分の実感を信じる。そして、実感が湧かないときは人に質問したり本を読んだりして妥協せずに、自分の実感が生ませるまで、自分に寄り添って行く。それしか道は無かろう。
それもやがては当人の個性となるだろう。


『高次元行進曲』
優先順位を見誤ったな。
自分の価値観や固定概念というのが一番の敵であろう。
自分の考えという外側の世界に、知識を身に着けて向かい、戦おうとしているのか。偶然恋に落ちるように、あることがきっかけで自分が遠くに見えるようになるのか。
どちらも大事な要素だ。
堀固まった価値観からもっと高次元に動こうとして学問に励んでも。その学問そのものにある癖、価値観や、習得課程で身に付けてしまった価値観から脱け出すのは大変な訳で。
世界が自分なのか。自分が世界なのか。朦朧(もうろう)とする疲労の中で。
何か新しいものを見出だした氣がした。


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