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ア ム リ タ 温 泉 に 浸 か る 。 3

前回に引き続き、今日も吉本ばななさんの「アムリタ」を読んで感じたことについて綴ってみようと思います。※ネタバレ多めです。これから、こちらの本を読もうと思っている方は読後にこの記事を読まれることをお勧めします。

弟との旅から戻った朔美は、ある日、母とデパートへ出かける。

母とデパートに来るのは久しぶりだった。
母の買い物はきっぱりとしていて男らしい。目的があってデパートに来る。迷わない。もしくは気に入ったものは気まぐれにぱっと買う。ぱっと買わない程度のものは手にも取らない。
見える視界が限定されてるんじゃないか?と思うくらい、いつも何のことでも欲しいものが決まっている。見ていると気持ちがいい。たとえ何かを省いていることになっていたとしても、いいように思える。何か、が何かはよくわからない。たぶん、人間としてのやむをえないめりはりのようなもの。意味もなくせつない夜、取り返しのつかない八つ当たり、愛ゆえの意地悪、嫉妬で痛くなる胸、こわれそうに求める精神、そういうもの。
いや、母の中にはあきらかに何か、過剰なものがある。なのにそれをどうやって処理しているのか?時々わからない。でも私には何となくわかる気がする。彼女は買い物や理不尽な感情の爆発にそれをまぎらわそうとしてはいない。では何か?
それはたぶん、「うまくいくこと」。
たとえうまくいってなくても、顔を上げて、目を開いて、うまくいくようなムードを発散しているうちに、無理やり「うまくいく」を自分に引き寄せてしまうのだ。何度も見た。その見事な手腕、意志力。
まねできない。
アムリタ 吉本ばなな P222、223

わたしはこの箇所を読んで、朔美のお母さんみたいになりたいな、と思った。きっぱりしている、というか、迷いがないそのシンプルな生き方がうらやましいなって。

わたしはきっと、自分の好きなもの・・ もの、じゃないか。好きな人、とかがまだまだ曖昧で。得意じゃない人とも仲良くなれそうな気がしてしまったり(そしてさほど距離を縮めれず、仲良くもなれず、後で傷ついたり)、人に合わせ過ぎてしまったり、なんだかいろんなことを自分の中に入れようとしてしまうところがある気がして。それが自分を疲れさせているような気もしてしまったりして。コップの水があふれてから気づくんだよね。ああ、無理だ、もう抱えきれない。パンクして。
だから今Facebookなんか情報量多すぎるから見れないし。

自分の身体に窓か扉があるとして、そこはシャッターでぴっちり閉めることもできるんだけど、私の場合はすこし隙間が空いていて。それが良くないなって思うことがよくある。
接していて、ぴっちり閉めてるな、って思える人いっぱいいて。いつもうらやましいんだけど。私は開いてるし、何かがだだもれてる。
寂しさとか孤独感によって、その隙間は空いてしまうんだろうなって思う。

職場にいると、特に男性社員さんは、距離に気をつけてるなって思う。
必要以上に近づかないし喋らない。仕事は仕事って割り切ってる。
でも私はそういうの無理なんだ。
仕事でも一緒に働いてる人と楽しく話せるチャンスがあれば話したいし、パートさんともよく喋ってる。その時間が楽しい。それが無くなったら辞める事も考え始めるかもってくらい。そういうのほんとはダメなのかもしれないけど、適度にゆるいところがないと無理なんだ。

朔美は母と、いろんな話をする。
学校に行かなくなってなんとなく調子を崩した弟の事など。

「たぶん、由男に必要なのは、力と愛」
母は言った。
「愛?」
たしかこの間、純子さんもそのようなことを言った。
「あんたは理屈っぽすぎるのよ。考えすぎなの。右往左往してタイミングをのがしてはすり減るだけ。どーん、とそこにいて、美しく圧倒的にぴかーっと光ってればいいの。愛っていうのは、甘い言葉でもなくって、理想でもなくて、そういう理性のありかたを言うの。」
(略)
「あんたたちを見てると、何となく集中力が足りない、っていう感じがする。足が止まってるときが多い。何となく。何よりもただがむしゃらに生きたらいいのにって思う。」
母は続けた。
アムリタ 吉本ばなな P227、228

考えすぎず、がむしゃらに生きる。
わたしはそのように生きれているのかな?って思ったけど、過去はがむしゃらに生きてて、今は考えすぎかも。って思ったりした。
ん?でもがむしゃらに日々を過ごす前の私も、考えすぎてたかも。
今は、がむしゃらに日々を送ったらすんごい疲れたから、休んでる。そんな感じなのかな。そっか、がむしゃらを経験した事であえて今はあまり動かないようにしてるから、一応学んだ上での今なんだよね。

だけど、この箇所を読んで心に響いたっていうことは、また「がむしゃらに生きたい」って思う自分がいたからだと思う。
中学とか高校の同級生とかで、できちゃった結婚した子とか結構いたけど・・ 結婚して離婚してシングルマザーになってる子もいるけど。わたしの中ではそういうのが「がむしゃらに生きる」みたいに思えてしまう。
なぜかっていうと、自分は結婚していないから。
だいぶ慎重に相手を選んでいるから。
だから、決意して前へ進んでいるのが「がむしゃらに生きている」ように見えるんだ。すごいなって思う。
わたしは石橋叩きまくっちゃうもん。結婚とかパートナーに関しては。
それ以外の事なら、突然京都の太鼓のグループに入って毎週京都に通い出したり、水彩画教室に通い始めたり、とか、アウェイな場所にも一人でドーンって行ける勇気は持っていたけど・・

「がむしゃらに生きる」ってどんな生き方の事を言うんだろうなあ。
いろんな人に聞いてみたくなった。

もし自分が二人いるなら、そのうちの一人に「がむしゃらに生きるver.」でもやらせてみたいわ。。。

そしてこの後、朔美は「そういうの、由男にも話してあげなよ」と母に伝える。ぽろっと出てきた母の話を自分のものだけにせず、一緒に暮らす皆にも聞いて欲しい気持ちになったのだと思う。

その日の夜、夕食の席で、母は朔美に言われた事を実行する。
そのシーンもとても好きなのだけど、ボリュームがあるので「4」に綴ろうと思います。

今回も、私的な感想、読んで頂きありがとうございました◎


「4」へつづく。


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