マーケティング関係のnoteを読み進めていたらコモディティという単語に足止めされた話
note内にはマーケティング関係の内容を紹介しているページが非常に多いように感じます。
なにか「学んでいる感」が演出できているように自分を納得させられそうなため、空き時間にその種のnoteを手に取るという可能性も他ジャンルに比べて多いのではないでしょうか。
その中で目にとまる、マーケティング系noteで紹介されることが多いページが下記リンク。
こちらは昨年度というか去年度のnoteであるにも関わらず、noteの検索窓に「P&G マーケティング」と打ち込んでも一切表示されないという特徴があり、なにか恣意的なものでなければ良いように感じます。
仕方がないので折に触れて読みたい場合は
と検索エンジンに打ち込む方が手っ取り早いという矛盾した状況となっているため、そちらを推奨します。ユーザに一手間与える環境作りをされているnote社の意図とはどのようなものなのでしょうか。単純に想像だにできない。
また、いつの間にかnoteヘッダ画像にjpgとpng以外が利用できなくなっています。サイレントアップデートであるため、こちらの意図と言いますか「変更内容をリリースとして公布しない意図」がわかりません。
このような画像ピクセル数値についての周知みたいなページをわざわざ作っておいて、です。
以上はnote社に改善してもらいたいがために書いた余談です。
(後日調べた処、「定番」タブを使うといくつかの検索語では表示されることがわかりました。しかしながら検索直後に表示されるタブはそちらではないため、意図はわからないままです)
またマーケティングの分野では絶対とされる「数字」。絶対であるならば脳死状態で信奉すべきなのか、はたまた数字が絶対である分野であるからこそ見極めるために読むべきであるかという二律背反ながらどちらも結果的には「読む」という答えに行き着いているほど「なんとなく読んだほうがいいんだろうな感」が得られる被参照量である、という紹介のされ方も多い。
日曜日なので読者のかたのことを考えず、右脳が打ち込むままに書いていたら導入の文だけでここまでの行となってしまいましたが、折角なので上記のnoteを読ませて頂きたくなりました。
そして読み始めた。
すると実にビジネス文書らしい外来語(ビジネス用語とするのが正しそう。社会の人なら身につけて当然という理でたびたびぼくらは責められることになります)のオンパレード。
いきなり出鼻をくじかれて読める気がしません(単純にぼくが当該noteを読む資格を持ち合わせていない状態なだけですね)。
そもそも単純計算で35000字ぐらいあるようです。作者さんは本気で取り組めば1時間で読めるという試算をなさっておられるようですが、例えば行き帰りの交通で読み進めるべきような新書として扱われるべきとぼくは感じました。それを(まだ内容を見定めていないためそれこそ脳死で信奉すべきではありませんが)無料で公開なさっているわけで非常に人々のおうち時間に訴求しているnoteとなのだと思います。
目次以前の話<コモディティ化とは>
目次に至る前に
機能のコモディティ化が進み、製品便益の差別化が一層難しくなっている現代において、純粋な技術力だけで勝ち切るのは至難の業です。
という文が登場します。もうこの時点で意味がわからない。ああ、自分には当該文を読む資格がない、スタート地点にも達していないんだなと落胆する。
「ではせめてコモディティ化という単語について知ろう」と思いました。Wikipediaから情報を得るという行為は、情報の精査というレベルでは疑いをはらみながら蓄積を進めるべきことですが、単語の意味を知るために利用する上では他出典元と比較することでその精度にはある程度の水準が保たれると思います。ゆえに当該ページを開く。
マルクス経済学から生まれた単語らしいです。ぼくはマルクスの経済論について学んだ記憶はありますがマルクス自身の著作物にまで目を通した経験があったかどうか、あったような気はするのですが全く自信はありません。
あるジャンルの商品について本来理想的な形としては……市場競争により個別に独自性がある商品が並び、消費者はそれぞれの目的・用途に合わせた物品を自由に選択できる状態が考えられます。
しかしながら 、いわゆる「どれを買っても同じ」という具合に値段・質ともに均一となった状態で各社から同系列商品が提供されている状況がコモディティ化であるよう。
つまり先の文は、
昨今の市場にある商品は、値段や品質その他について均一化が進行してしまった状態。エンドユーザに手にとってもらうため、より便利な商品であると思ってもらうための施策をおこないたくとも、技術を上げた程度では太刀打ちできない状況である
という意味になりますね。そして、そんな状況なのに乱立する専門店の中からひとつが選ばれ得るのはどういう仕組みなのか、実はそこにマーケティングがあったから……と続く。これで読み進められますね。
コモディティ化
ところで、コモディティ化についてそのサンプルケースが非常に興味深い。突き詰めるとなぜ現代にはここまで百円均一店が大量出店しているのかという理由にも繋がりそうな気がします。
そう思ったのはWikipediaでの紹介がより歯に衣着せぬ物言いであったため。
メーカーごとの個性を失い、消費者にとってはどこのメーカーの品を購入しても大差のない状態のこと
またpediaの書き方ではエンドユーザの商品選びが値段にしか依存していないようにも見えますがそこまで事情は単純なようにも一概には思えない。難しいですね。
PC周辺機器におけるハードウェアが代表的な例とされています。確かにメモリ・LANケーブル・HDDとどのようなメーカーから買ったとしても、当該商品に望むスペックは満たしてくれるだろうという信頼感がある。
ことHDDに限ってはぼくはWestern Digital製のものしか利用したことがなく、
最早物心ついた頃に人生の先達者から教わるがままに利用していたそれらすらもあまり意味のない執着なのかも知れませんが……斯様にベンダーに苛烈な競争をさせておいて消費者はその恩恵だけ受けられるという構図となっており、それが本当ならタンス貯金みたいなものがより進む時代になるのでしょうか。経済的にはよろしくないのかも知れませんが……
また無理矢理陰謀論的に考えるのであれば、「サプライヤー達がここまで切磋琢磨していて、質が高く値段が一気に下がった商品を殿様気分で眺められる消費者様の天下だからもう少しメーカーにお気を遣ってくださいまし、だからもっと場当たり的な安物買いをガンガンしてくださいまし」的思想の促しなのだとも考えられなくもありません。声高に、市場におけるコモディティ化の進行を訴えることによって消費を促し、それこそタンス貯金のようなものがあるならそれらを崩す狙いでですね。
消耗品・日用品であれば場繋ぎのためしかしながら確実にその役割を果たしてくれるという保証さえあれば良く、消費者は経験則に依って見極めることができる。それ以上の品質を求めるならばそれは嗜好品となるかもしれません。あるいはそのブランドを使っているという所有欲その他に類する感覚で利用するというような形ですね。
登場した当初こそこれまでにない画期的な製品だったが、いつしか素材・製造過程のパッケージ化(モジュール)・生産/入手方法および手段等が社会全体に広まり共有されるようになると製品の完成にかけるコストが下がり、当時見かけたような圧倒的な額の製品なんて見かけなくなる。
書いてて思いましたが、ゲームハード(ゲーム機)はこれがないですね。そのハードで遊べるソフトは一新されてしまう=互換性がなくなるという暗黙の了解があり、後継機という概念ではなく次世代機というリリースのされ方をする。常に進化したものを提供するわけだからその都度値下げをする必要がないどころか、寧ろ前世代機の値段が次第に下落して行った現象を是正するかのような値段が提示されがちです。
また規模の大きさに伴ってノウハウが蓄積されることにも言及されています。このおかげで適切なアフターケアができるようにもなる。しかしながらそれこそコモディティ化の概念に照らし合わせると、ユーザ側から見た場合アフターケアに費やす時間や金銭など労力と比較するならば別の新品を買ったほうが良いという選択さえされてしまうのではないかと今の市場を想像するにそう感じられてしまいます。
後記
ひとつの単語だけでこのように様々な考えに到れるのだと思えました。本文の先を読み進めて行きたいですね。
それではその感想はまた次回以降にいたします。お付き合い下さりありがとうございました。
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